田舎の三文芝居でもやらない漫画チックなプロット

ウソと妄執によって練り上げられた検察の作文だけを拠り所に、あれほど寄ってたかって〝小沢叩き〟に勤しんでいた新聞・テレビ、大マスコミが、このところ「陸山会事件」については見事にダンマリを決め込んでいる。言うまでもないが、先の東京高裁の決定(小沢裁判の無罪判決支持=控訴棄却)を受けてのことだ。察するによほど後ろめたいのだろう。

 

そのくせ折に触れては、「判決の如何にかかわらず政治家としての道義的責任は免れない」とか、「国会で国民に対する説明責任を果たすべきだ」とか、まるでピントのズレた写真のような屁理屈を、政局や選挙関連の記事の中にチョコンと紛れ込ませているから始末に負えない。一転して批判の矛先が我が身に向かわないよう、先手を打っているつもりなのだろう。しかしそうは簡単に問屋が卸すものか。この際だからはっきり言っておく。国民に対する説明責任は他でもない、アナタたちにこそあることを、しっかりと肝に銘じられたい。以下、その理由を述べる。

まずは一連の事件の発端となった、水沢建設からの〝闇献金疑惑〟である。

 

これについて大マスコミは、検察の描いたシナリオに沿ってこれでもかとばかりに、あることないことを書き立ててきた。しかしどんなに強制捜査を繰り返しても、水沢側から小沢側に裏金が渡ったという証拠など、何一つ出てこなかったのは周知の通りだ。そもそも大勢の人が行き交う都心の有名ホテル(赤坂の全日空ホテル)のラウンジで、1億円ものヤバイ金を紙袋に詰めて手渡すなどという、田舎の三文芝居でもやらない漫画チックなプロットを真に受けるほうがどうかしている。中にはわざわざ再現ビデオまでつくって、全国ネットで流したテレビ局もあるから、開いた口が塞がらないとはこのことだ。案の定、ストーリーは秘書らの裁判の過程でことごとく崩れ、小沢裁判では、検察官役の指定弁護士が議決書に書くこともできなかったことから、争点にすらなっていない。早い話が、全部デッチ上げだったと検察自らが認めたようなものだ。

 

〝市民感覚〟なる錦の御旗

闇献金がなかったとなれば、2004年10月の土地購入に始まる一連の流れの事件性は、限りなくゼロに近づいたと言っていい。検察の主張する「収支報告書虚偽記載」なる罪状が、「闇献金を土地購入の原資の一部に充てており、その事実を隠蔽するためにわざと期をズラした」という仮説の上に組み立てられているからである。要するに虚偽記載する理由がなくなったわけだ。とするとこれはいわゆる〝期ズレ〟で、単なる記載ミスでしかない。けっして胸を張って言えることではないが、収支報告書の記載ミスなんて、永田町には掃いて捨てるほどある。普通はきちんと修正したうえで、そのことを国民に公表し、ゴメンナサイとやれば一件落着というレベルの、〝事件〟とも言えない事件でしかない。

 

それが証拠に、検察は秘書らをとっ捕まえてギューギューに締め上げたものの、結局は公判が維持できないと観念し、二度に亘って不起訴の決定を余儀なくされているではないか。本来ならばその時点で、検察も大マスコミも潔く白旗を掲げ、ことここに至った経緯を包み隠さず明らかにした上で、小沢氏はもちろん、広く国民にも謝罪すべきだろう。それをあろうことか、検察審査会なる得体の知れない神輿を担ぎ、検察はウソの上にまたウソ(調査報告書の捏造)を塗り重ねる。大マスコミは大マスコミで、それが国民のやんやの喝采を博すよう公器たる紙面や電波を使い、小沢=悪者のイメージを、繰り返し繰り返しインプリンティング(脳への刷り込み)すべく仕向けるから、怒りを通り越して呆れる他ない。

そもそも検察審査会は、本来なら明らかに起訴すべき事件なのに、癒着や裏取り引きなど、何らかの理由によって検察が恣意的に起訴しなかった場合を想定し、設けられた11人の市民組織である。もちろんその11人は、当該事件はもとより、検察とも何ら関係のない善意の第三者だ(ということになっている)。したがって検察にとっては〝煙たい存在〟である筈と言っていい。それがなんと仲良く?タッグを組んで、無実の人間を罪に陥れようとしたのだから恐ろしい。これを助長したのは誰あろう、〝市民感覚〟なる錦の御旗を持ち出して、囃し立てた大マスコミである。このことは一般の市民にとっても、けっして他人事ではない。検察や大マスコミに楯突いたら誰でも簡単に被告人にされてしまう、ということをはっきりと意味しているのだ。

「検察審査会は、検察から出された捜査報告書を基に審査をします。捜査報告書は被疑者が署名する供述調書と違って、検察官の思う通りに書くことができます。今度の件ではたまたま石川(知裕)前衆議院議員が、ICレコーダーで隠し撮りしていたので捏造が発覚しましたが、程度の差こそあれ、そんなことは日常的に行われていると考えて差し支えないと思います」(司法ジャーナリスト)。

もちろんそんなことは、大マスコミも端っから承知している。それでいて何も言わないし何も書かない。今さら〝社会の木鐸〟たれとは誰も思わないが、少なくともこれを機に、無実の人間を犯罪人に仕立て上げる検察のお手伝いだけは、金輪際やめるよう、小誌としては強く求めておきたい。

(編集長/大高正以知)