オビ コラム

戦わずして勝つ

◆文:筒井潔(合同会社創光技術事務所 所長)

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今回は孫子に書かれている戦い方のうち「戦わずして勝つ」ことについてお話ししようと思います。孫子の冒頭は次の言葉で始まります。

 

孫子曰く、兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道なり。察せざるべからず。故に、之を経(はか)るに五事を以てし、之を校(くら)ぶるに七計を以てして、其の情を索(もと)む。一に曰く道、二に曰く天、三に曰く地、四に曰く将、五に曰く法。道とは、民をして上と意を同じくし、之と与に死す可く、之と与に生く可く、危(うたが)わざるなり。天とは、陰陽、寒暑、自制なり。地とは、遠近、険易、広狭、死生なり。将とは、智、信、仁、勇、厳なり。法とは、曲制、官道、主用なり。凡て此の五つのものは、将として聞かざるなく、之を知る者は勝ち、知らざる者は勝たず。敵に之を校(くら)ぶるに計を以てし、其の情を索(もと)む。曰く、主、孰(いず)れか道有る。将孰れか有能なる。天地孰れか得たる。法令孰れか行わる。兵衆孰れか強き。士卒孰れか練れる。賞罰孰れか明らかなる。吾れ此を以て勝負を知る。(計編第一)

 

何が書いてあるかというと大雑把には次のようなことです。戦さは国家の大事であり、民の生死と国の存亡が懸かっているから、良く考えなければいけない。5つの事柄を考慮し、7つのことを比較して、実情分析をするのである。

5つの事柄とは、(1)民の意思統一、(2)陰陽や気候、(3)地の利、(4)智、信、仁、勇、厳を備えた将軍、(5)法の整備である。法とは、曲制、官道、主用とはそれぞれ、曲制が軍隊の部隊編成、官動とは職制や各職の権限、主用とは指揮命令系統のこと。これらの5つの事柄を良く知っている者は勝ち、そうでない者は負ける。また、敵と7つのことを比較し、実情分析をするのである。それは、(1)どちらの主が民の意思統一をしているか、(2)将軍はどちらが優秀か、(3)陰陽や気候、地の利はどちらが有利か、(4)法整備はどちらが進んでいるか、(5)兵隊、兵器はどちらが強いか、(6)兵隊はどちらの熟練度が高いか、(7)賞罰はどちらが公明か、の7つである。これらをまとめて五事七計と呼びます。

 

上を読むと当たり前のことが書いてあると感じるのではなでしょうか。ビジネスに置き換えても、もし孫子の言葉を会社でのビジネスのことを考えれば、社員の意思統一、天候、地の利、リーダー、法整備がビジネスの勝敗を左右するのは当たり前です。巷に溢れる孫子のビジネスへの応用の試みの多くにはこのようなことが書いてあると思います。

しかし、私はこのような解釈が正しいとは思わないのです。特に、今の日本について考えるのであれば、上のような解釈をしている限り「失われたx年」は解消しないだろうと思うのです。

 

東西の冷戦が終わった頃から、ビジネス戦争は個々の企業同士の競争から政府を巻き込んだ国家同士の競争へと変化したと言われています。象徴的な例として挙げられるのは、アメリカ政府が日本政府に「年次改革要望書」を送り始めたのが1994年です。

アメリカで元CIA長官が「われわれが軍事的な安全保障のためにスパイをするならば、経済的な安全保障のためにスパイをしてはいけない理由はない」と言ったのは1992年頃です。日本はバブルがはじけるまさにその時という時代です。その後の1993年にアメリカではクリントン大統領時代が始まります。

そして、大統領の経済諮問委員会が、1985年から1989年までに日本の経済、通商政策によってアメリカ製品の売り上げが1050億ドルの損失を被り、その大半は日本企業の売り上げ増に取って代わったという報告書を出していた(T・ワナー「CIA秘話(下)」(文春文庫))。この頃から、アメリカのCIAは対日経済スパイ工作を始めます。このように、1990年代中盤以降、ビジネスは官民一体の時代に入って行きます。

 

 

では、このようなアメリカの遣り方の変化は、ビジネスの世界にどのような変化をもたらしたのでしょうか。私が思うに、「輸出するもの」が変わったのだと思います。それまでの物からもっと抽象的なビジネス哲学というか、良く言えばビジネス文化、普通に言えばビジネスメソッド自体を輸出するようになったのだと思います。

例えば、上で触れたアメリカから日本への年次改革要望書に書かれたことで日本で実現したことには次のようなものがあります。1997年の金融ビッグバン、2005年の郵政公社の民営化、時価会計の導入、大店法の改正などです。

私はアメリカのこのような遣り方が良いとか悪いということは言っていません。ビジネスは戦いですので、戦いに良し悪しもないと思うからです。また、このような遣り方を採用するアメリカのことを引き合いに出すことで、アメリカの政治家が優れていると言いたいわけではありません。このような動きは、アメリカのビジネス界が政治にモノを言って、政治家を動かして実現しています。

大事なことは、孫子の「兵は国の大事なり。死生の地、存亡の道なり。」というのは、このようなことを含んでいるということです。ですから、(1)民の意思統一、(2)陰陽や気候、(3)地の利、(4)智、信、仁、勇、厳を備えた将軍、(5)法整備という5つの事柄は、社員の意思統一、ビジネス環境、現場の指揮官、会社組織ということではなく、官民の意思統一、地政学的優位、智、信、仁、勇、厳を備えた国家のリーダー、官民を含むストラクチャーということだと思うのです。私が言いたいことの一つは、今の日本にこれらが存在しているでしょうか、ということです。

 

 

もちろん、これらを整備したところでビジネス戦争に勝てるのか、というとそんなに世の中は甘くないと思います。孫子には次の言葉があります。

 

 

兵とは詭道なり。(計編第一)

 

 

戦いとは詭道、即ち騙し合いである、というようなことです。

 

では、アメリカはどのような詭道を使っているのでしょうか?アメリカは「正義」を持ち出すのです。アメリカは正義と抱き合わせでビジネスメソッドを輸出しているように思います。

 

アメリカの正義とは何か、ということは大いに議論があるでしょう。しかし、ここでロールズを引き合いに出すことに意義を唱える人は少ないのではないでしょうか。

ロールズはまず、「無知のベール」を導入する。「無知のベール」とは、自分が裕福なのか貧しいのか、強いのか弱いのか、健康なのか不健康なのかが分からず、自分の人種、宗教、性別、階級も不明な状態とします。

この無知のベールを被った状態で社会契約を結ぶことを想像しましょう。このような状態で人々が選ぶ原理は「正義」に適っているはずであるとロールズは言います。このような原理は不平等な取引条件に影響されていないからです。ロールズはこのような原理は2つあると言います。

一つは、あらゆる人に平等な基本的自由を与えることを要求する第1原理であり、もう一つは社会で恵まれない人に利益をもたらす所得と富の格差のみを認める第2原理です。後者の例としては、医者が高給を得ることが正義に適う論理として、才能がある人が積極的に医者を志すことで恵まれない人も恩恵を被ることができる機会が得られるかも知れない、という論理があります。

ロールズの第2原理は、機会均等原理と格差原理から構成されます(マイケル・サンデル「公共哲学」(ちくま学芸文庫))。もちろん、現代の「アメリカの正義」がロールズの正義論での正義であるわけではありませんが、「正議」などと言われると、傾聴の価値があるかのように思ってしまうのは私が日本人だからかも知れません。

アメリカの正義は、ジョセフ・ナイ教授が主張するアメリカのソフトパワーと一体であると言っても良いでしょう。

 

 

このようにアメリカは「正義」を詭道の一つとして積極的に使い、ビジネス戦争を仕掛けています。アメリカ国内では、ソフトパワーという標語の下に官民の意思統一、地政学的優位、智、信、仁、勇、厳を備えた国家のリーダー、官民を含むストラクチャーの5つの要素を整備をし、日本にビジネス戦争を仕掛けたと考えるべきだろうと思うのです。つまり、アメリカはモノではなく、正義を輸出しているとも言えます。ただ、この正義がアメリカ企業に有利なだけです。

 

 

それいまだ戦わずして廟算(びょうさん)して勝つ者は、算(さん)を得ること多ければなり。いまだ戦わずして廟算して勝たざる者は、算を得ること少なければなり。算多きは勝ち、算少なきは勝たず。しかるをいわんや算なきにおいてをや。われこれをもってこれを観るに、勝負見(あら)わる。(計編第一)

 

 

開戦前に廟、すなわち宗廟(おたまや)で五事七計を用いて目算して勝つようなら、実戦でも勝ち目が多いだろうし、目算しても勝てないようなら、実戦でも勝ち目は少なかろう、ということです。要するに、戦う前に勝つ見込みを付けようね、ということです。マキャベリも似たようなことを言っていることは知っておいて良いかも知れません。マキャベリは「武装せる予言者は勝利を収めることができるのであり、反対に、備えなき者は滅びるしかなくなるのだ。」と言います。

 

 

日本とアメリカのビジネス戦争ではどうでしょうか?アメリカは政治力を使って、日本がアメリカ企業と同じ土俵で戦うように「年次改革要望書」を送り付けて来た。受け取った方が後手に回るのは必然です。

では、日本はどうしたら良いのでしょうか。まずは、同じ土俵に乗らないことです。そして、アメリカの正義に対して日本の正義で対抗するしかないのです。では、日本の正義とはどのようなものでしょうか。我々はまず、このポイントから出発しないといけないのです。

 

 

最後に、孫子では「将とは、智・信・仁・勇・厳なり。」とあることについて、マキャベリとの比較を紹介しておきます。

マキャベリは、「われわれの経験では、信義を守ることなど気にしなかった君主のほうが、偉大な事業を成し遂げていることを教えてくれる。」、「君主は、悪しきものであることを学ぶべきであり、しかもそれを必要に応じて使ったり使わなかったりする技術も、会得すべきなのである。」と言います。

孫子でも「兵は詭道なり」と言いますが、マキャベリの言葉を見ると西洋の方がもっとえげつなく、孫子の方が紳士的かも知れません。

 

 

 

※上記の見解は、事務所、会社としての見解というより、所長である私個人の見解であることは先に断っておきます。所内にもいろいろな意見があります。

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筒井

筒井潔(つつい・きよし)…経営&公共政策コンサルタント。慶應義塾大学理工学研究科電気工学専攻博士課程修了。外資系テスターメーカー、ベンチャー企業を経て、経営コンサル業界と知財業界に入る。また、財団法人技術顧問、財団法人評議員、一般社団法人監事、一般社団法人理事などを務める。日本物理学会、ビジネスモデル学会等で発表歴あり。大学の研究成果の事業化のアドバイザとしてリサーチアドミニストレータの職も経験。共訳書に「電子液体:電子強相関系の物理とその応用」(シュプリンガー東京)がある。

〒150-0046 東京都渋谷区松濤1-28-8 ロハス松濤2F

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