オビ 企業物語1 (2)

『いつも土壇場、つねに修羅場、まさに正念場』

ぱど倉橋泰氏インタビュー・【第5回】

若者へのメッセージ

◆取材:加藤俊 /文:渡辺友樹

オビ インタビュー

株式会社ぱど 倉橋泰氏 (3)

本連載は、新生ぱどの紹介を皮切りに創業者の倉橋泰会長が「ぱど」に捧げてきた激動の半生をオーラル・ヒストリーとして記録したものである。

第1回はこちら 『ぱど倉橋泰氏インタビュー・紙媒体の未来 「紙でSEOをやる」とは?』

第2回はこちら『製造業から生まれたフリーペーパー ぱど創業秘話』

第3回はこちら『大赤字でのスタート』

第4回はこちら『MBO、そして上場』

 

2011年、東日本大震災

 ―東日本大震災の影響はいかがでしたか?

 

株式会社ぱど 倉橋泰氏

あのとき仙台が大変だったんですよ。一切連絡が取れなくなって。3月ってぼくらの事業ではいちばん売上が出るとこなんですよ、利益も。というのは年度末ですから、企業は利益が出てると広告費に使うんですよ。で、4月以降の売上につなげると。税金払うよりは広告をやるという企業さんが多いんですね。だからものすごい出稿量になるんです。

で、そのとき仙台は最高の売上だったんです。発行を待つだけやった。ところがあの震災で売上ゼロになっちゃった。発行できなかった。千葉で刷って仙台まで運んでいたんですよ。でももう道路が寸断されてアウトだし、工場は液状化で止まっちゃうし。だからもうほんとにダメかと。社員も、何百人もいるぱどの配布員「ぱどんな」さんたちの安否も分かんないし。

後から分かったんですけど配布先だった1万世帯ぐらいが津波に流されて配布ができない状態で。そこへ配ってた人たちもいるわけですから。社員は全員無事だったんですけど、社員の家族は何人か亡くなってしまった。

それが分かるまでけっこうかかりましたね。社員でも危機一髪だった人もいたりね。営業で車に乗ってて、裏道知ってたから良かった。大渋滞になったときに裏道に抜けられて助かった。いつも行ってる地区だったから。

 

―本当に大変な災害でしたね。

 

発行はもう全然できないし、震災後はビルにも入らせてくれなかったんですよ、倒壊するかも知れないってことで。もう全然電話も使えないコンピューターもいじれない、そういうのが1週間ぐらいだったかな。

でも仙台は死活問題だから逆に団結しました。どうやったら早く立ち直れるかって話し合って、ウェブサイトを作ったんですよ。現在営業してる事務所とかお店の情報を載せるサイトを作ってね、そこに載ってたらお客様が来るかも知れないし。従来のお客様だけじゃなくて今まで取引もなかったお客様に声かけて。こういうサイトがありますよって駅前でビラ配って。よその媒体が2、3カ月ぐらいクローズだったんだけど、ぼくらは1カ月ぐらいで再開した。

 

―被災地仙台の頑張りは頼もしいですね。

 

ダメやったのは東京です。もう広告の自主規制ですよね。こんなときに広告どころじゃない言うて。テレビのCMも決まったものしか流れなくなった。とにかく広告がもう全部自粛で。それに計画停電になるから、店を開けられるのかどうかもわからん。それで東京の営業マンがしょうがないって諦めちゃった。

お前らなあって。仙台の分まで取り戻すぐらいは動けよと言ったんやけど。そういう状況で東京の方がダメで。もう自粛ムードやからぼく手紙書いて営業に持たしたんですよ。1日も早く日常に戻すことが使命だし、自粛することではないということを書いて。我々は1日も早く震災前に戻すということでがんばりますと。

 

―業績はいかがでしたか?

 

3月が最高の売上になるのが、その年は東京もほとんどゼロ近くになりましたから一気に赤字決算でしたよね。4月以降がまあほんとに始まって以来ぼくら潰れるんちゃうかなあぐらいの。結局4月、5月の2カ月で1億円ぐらい赤字出たかなあ。次の3月末は黒字取り返しましたけど、ほんとにもう冷や汗でしたね。

ところが仙台は逆にそれを機に良くなった。よその媒体がないときにうちが協力したんで恩義に感じてくれたお客様もあったのでしょうね。それによそが営業してないときに新しいお客様を開拓できたわけですよね、それは大きかった。

逆に東京はダレちゃってもう「しょうがない」と。しょうがないじゃないだろみたいな。だからひと月も経たないうちにお客様に手紙持って行かして。元に戻しましょうよと。いつまでも喪に服すんじゃなくて、通常に戻しましょうよと。お客様も音を上げていますから。営業しないと客来ないから。

だからお客様にも賛同してもらって。それから後半取り戻していきましたけどね。

 

 

若者へのメッセージ

―小誌は中小企業だけでなく、学生も応援しています。学生たちにメッセージを。

 

ぼくはこの20年ぐらい、失われた20年で低成長を続けてるから、夢がなくなってるんじゃないかという気がするんだよね。それと、もっと関心を持って欲しい。というのは、たとえば国が1000兆円の借金をしてるということは、返すのはきみたちなんだよということ。

ぼくはいま借金してるのは未来からの搾取だと思ってるから。ぼくらは未来にいないんですよ。未来はいまの学生さんらのもの。だから、そんなことあかんぞともっと声高々に叫ばなあかんちゃうのと思うわけ。政治にだってもっと関心持たないと。老人はちゃんと自分たちを守るために票入れてるのに、若者が票入れてないんだから。

 

―若者たちの無関心の原因はどこにあるのでしょうか?

 

夢があれば、未来に向けてどうあったらいいかを考えるわけですよね。だから、その日暮らしになっているんじゃないのかなって気がしてしょうがない。いまが楽しければいいやとか、頑張ってもどうせ、とかね。どうも気概が感じられない。自分が未来を変えていこうとか、そういう人たちが減ったんじゃないかな。

たとえば海外留学にしても日本人がガーンと減っているんですよね。日本語で済むんだったらって、安易になってるから。だからそういう意味でもっとハングリーにやっていいんじゃないのかなって。いまの現状でほんとにいいのかって。次は自分たちの世代の出番なのに。

 

ぼくは神奈川県の教育委員を6年やってるんだけど、やっぱり生徒たちも二極化しているなと。世界で戦おうという人たちにはそういう場があるけど、かたやマイスターで頑張ろうという人に対するフォローをもう少しやるべきだと思っています。要するに職人を増やしていく。猫も杓子も大学を出たらいいんじゃなくて、早い段階で社会とつながるのも一つやから。

野球選手だってそうですよね。大学に行く必要がないのかも知れないし、大学に行きながらやれる人もいるのかも知れない。たとえばパティシエになりたい生徒には、衛生学とかそういう分野で単位あげるとかね。普通の古典とか数3で単位取らなあかんいうのをやめてね。もうちょっと幅広い単位の取り方にすべきじゃないのかな。

 

でもそうするとまたコストが要るんですよ。それぞれに専門の機械や先生が要るわけですからね。エステの学校作ろうと思ったらエステの先生が要るわけだよね。まあでもそういう、世の中にある職業の中で多いものからそういう専門学校を作っていったらどうなのかと。

日本の場合、専門学校って高校卒業しないと通えないんですよ。高校の段階で学ばせてもいいんじゃないかと思うわけですよ。

 

 

─会長の熱のある生き方が印象的でした。最後に、生きる上での指針のような考え方があれば教えてください。

 

「いつも土壇場、つねに修羅場、まさに正念場」がぼくのスローガンですけど、そうですね、これからは大胆に変わっていかなきゃいけないと思っています。

 

―ありがとうございました。

 

 

オビ インタビュー

倉橋泰(くらはし・ひろし)…1953年大阪府生まれ。京都大学工学部卒業後、1977年株式会社荏原製作所入社。1987年社内ベンチャー事業として株式会社ぱど設立。1992年、MBOにより株式会社ぱど代表取締役社長に就任。2001年、ナスダック・ジャパン(現・新ジャスダック)上場。発行部数1000万部達成。2002年、「ぱど」が発行部数世界一としてギネスブックに認定。2009年より、神奈川県教育委員。2014年より、東京ニュービジネス協議会副会長。同年、株式会社ぱど代表取締役会長に就任。現職。

 

株式会社ぱど

〒141-0021 東京都品川区上大崎2-13-17  目黒東急ビル2F

TEL:0120(090)810

http://www.pado.co.jp/

年商:79億円(2015年3月期)

従業員数:約370名(契約社員含む)

 

2015年11月号の記事より
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