オビ 企業物語1 (2)

スーパー町工場、さらなる飛躍へ「上場」は中小企業に幸せをもたらすか?

◆取材:綿抜幹夫 /撮影:高永三津子オビ ヒューマンドキュメント

ユニパルス株式会社 代表取締役社長・株式会社ロボテック 取締役社長 吉本喬美氏・技術屋魂で攻めの経営に打って出るセンサーメーカー

 

日本初「力加減のできるロボット」を実現させるためのモーターを開発

トルク(回転軸のねじりの強さ)の測定器などを製造するセンサーメーカー、ユニパルス株式会社。東証2部上場企業としての15年を経て吉本喬美社長が決断したのは、MBOだった。実娘である専務・玉久明子氏にも同席いただき、吉本氏の「技術屋」としての想い、「町工場」のあるべき姿を探る。

 

◎根っからの「技術屋」

子どもの頃から機械いじりが大好き

ユニパルス株式会社 (1)

本社ショールーム

子どもの頃から、勉強そっちのけでアマチュア無線に夢中だったという吉本氏。朝鮮戦争が休戦となり、米軍から流れてくる中古の通信機を分解したり組み立てたりして遊ぶなど、とにかく機械いじりが大好きだった。

大学も、本来なら卒業できるような成績ではなかったが、「学費を払っていたから押し出された」ような形で卒業、まともな就職活動もしなかった。そうは言っても働かなくては生きていけないと、半導体の生産設備を製造する小さな町工場に就職。

「半導体製造装置はそのころ黎明期だったので、面白かったですね。大学時代に学び損なったことを夢中で学びました」(吉本氏)

 

1970年、創業

3年ほど勤めたその町工場だが、ふとしたことから喧嘩をして飛び出してしまう。ちょうど娘が生まれた頃だ。「こんな仕事なら自分でできる」と、勢いに任せて同社を創業したまでは良かったが、その後の苦労は並大抵ではなかった。

前職で得ていた給料を自分で稼げるようになるまで、5年から7年ほどかかったという。通信機や計測器、機械装置といった製品を中心としながら、どんな仕事でも文句を言わずに請けた。やがて、いつまでも下請けをしていては大きくなれないと、自社製品で食べられるようになることを夢見るようになる。

現在まで続く計測器関係の装置を開発し続け、ようやくその夢が叶ったのは、創業から12〜13年を経てからだった。

 

2001年、東証2部に上場

自社製品で経営が成り立つようになった同社。その後は、それなりの危機もあったとはいえ概ね順調だった。ところが、生粋の「技術屋」である吉本氏には、なにしろ欲がない。儲けてやろうという気がそもそもないのだから、利益を上げるためのノウハウなど持っていない。順調ではあっても、伸び率は決して良くなかった。

そんな同社にベンチャーキャピタルから誘いがあったのは、1990年頃。業績も良いので上場しませんかという話に乗り、まずは株式を店頭登録。これが1998年のことだ。そして3年後の2001年、東証2部に上場。それまでの業績を評価した外資系のファンドが購入したことで、比較的良い株価で上場できたという。

 

 

◎上場時代

枠に嵌められて

それなりの価格で上場を果たし、これで順風満帆と安心した吉本氏だったが、しばらく経ってみると、上場によるデメリットを感じ始める。

「いい情報が出ても、株価は上がらない。悪い情報が出た途端にストップ安になる。時価総額が低くてファンドも買わないし、現実的には証券会社も東証も相手にしてくれない。それでいて、上場会社の体裁を保つために必要のない高給な人をいっぱい雇う。それに、なにより自由がないというか、四角四面の枠に嵌められたように感じていましたね。

『会社は株主のものなんだから、社長と言えども今までとは違うんですよ』なんて言われて、途端にシュンとしちゃって、いるだけの社長になっちゃった。ぼく自身が、萎縮して仕事らしい仕事をできなくなってしまったんです」(吉本氏)

 

社内の雰囲気も悪化

社内の雰囲気も変わり始める。「上場した以上は、会社は社会的な存在になったんだ」という意識が従業員に浸透、これが悪影響を及ぼす。

「まるで大会社のような、組合こそないものの言わば『社会の会社』になってしまって、会社は利益集団だということを皆が忘れてしまっているように感じました。社長はあんなことしてていいな、という不満の声がぼくの耳にも聞こえてくる、そんな嫌な状態が続きました。

町工場には、強い指導者が必要です。だけど、ぼくは強い指導者じゃなくなってしまった。いつのまにか権限が下の人間に委譲されていたり、知らない間に何百万、何千万とお金が出るようなことが日常的になってきて。もうできないなと思った。こんなに気分の悪い思いをするなら、会社を売っちゃってもいいかなと考えるまでになっていました」(吉本氏)

 

買収騒動

そんな折、同社は更なる災難に見舞われる。買収の危機だ。ある企業が同社に食指を動かし、吉本氏の株を買い取りにかかったのだ。

「要は、ぼくが死ぬのを待っていた。ぼくが死ねば、株は暴落する。それまでぼくは、会社に身内は入れないと公言していたんです。第三者取引先として入り込んでおき、ぼくが死んで家族が相続なんかで困っているタイミングで株を引き受けますぐらいのことを言えば、双方に得だろうと。ぼくの株を30%手に入れれば、会社を手中にできますから、そういう絵を描いていたのでしょう。

そのとき、死ぬのを待たれる歳になったかと思って。ぼくは向こうっ気が強いですから、それは嫌だなと。ぼくが死んでも、株はあんたらには行かないよという対抗策として、娘を社内に入れたわけです」(吉本氏)

 

 

◎2013年、上場廃止

MBOを敢行

上場していることのストレスに耐えかねた吉本氏、とうとう上場廃止を税理士に相談する。提案されたのは、吉本氏個人が株を全て買い取るMBO。当然リスクはあったが、意志は固かった。株価が上がる寸前のタイミングをうまく捉えることができた上、幸運なことに銀行からの融資もスピーディに取り付けられた。大変な作業ではあったが、MBOはスムーズに成功、会社を自らの手に取り戻すことに成功する。

その後は、約15年の上場時代に、まるで大企業に守られているかのようなぬるま湯体質に浸かりきってしまった社員を再教育するなど、社内改革を断行。「強い経営者」体制に戻った同社、MBO後は業績が落ちることもなく、順調に成長しているという。

 

小さな市場を狙う

同社が45年間にわたって安定的に経営してこられた理由として、「小さい市場で勝負してきたこと」を挙げる吉本氏。

大手企業が参入して来ない小さな市場に向けて自社製品を開発し、ナンバーワンを勝ち取れば、そこではパイオニアの地位を築ける。自らがパイオニアである小さな市場を1つ、2つ、3つ、4つと増やしていくことで、収益率の高い経営ができるのだ。

たとえば、「トルク」を測定するメーターがそうだ。モーターやエンジンなど回転機械の効率を測る実験に使われるトルクメーターは、同社のヒット商品のひとつだ。

 

技術屋人生の集大成は、ロボットを動かすための特殊モーター(ユニサーボ)

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ロボット用アクチュエータ「ユニサーボ」

現在、吉本氏が技術屋人生の集大成として取り組むのが、ロボット用のアクチュエータ「ユニサーボ」だ。モーターの出力軸のトルクを測定することにより、力加減のできるロボットが実現する。

自動車業界をはじめ、各種産業用ロボット、人間相手の介護用ロボットなど、幅広い活躍が期待できるのと同時に、これまでの同社にない大規模での展開が予想される。

追随するであろう大企業との戦いも視野に入れ、今年、株式会社ロボテックを立ち上げた。別会社を立てることで、必ずしもユニパルス本体と同じ経営手法に拘らず、全力で攻める構えだ。

 

 

◎現社長、次期社長に聞く今後の展望

吉本社長:目指せ「スーパー町工場」

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ロボットのダイレクトティーチング

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力加減のできるロボット

「上場会社であることに失望した」という吉本氏。現在の同社が目指す姿は「スーパー町工場」だ。下請けにはならず、自分たちの技術とアイデアの製品で拡大を続けることを夢見ている。

「やっぱり技術が好きなので、原点に戻りたい。経営については、MBOを行ったことは個人の感情からで、代々一族がこの会社を支配して欲しいという気持ちはないんです。いつかは人手に渡るんだろうなと思っていますが」(吉本氏)

 

玉久専務:父が独裁者なら、私は補佐役的な経営者に

もともとは、敵対的とも言える買収工作への対抗手段として入社した玉久氏。美大出身で、デザイナーとしてデザイン会社を経営、TVCMの制作に関わる仕事をしていた。

異なる畑から父の会社に加わった形だが、だからこそできることは多い。その最たるものがマーケティングだ。

玉久氏の入社時には、マーケティングは部門すら存在しなかったという同社に、TVCMの仕事で培った「訴求力」を追求するマーケティング手法が存分に生かされている。たとえば、年に20回を超える展示会では、その場での商談が売り上げにつながる例も多いという。そんな玉久氏に、現専務、次期社長として経営についての考えを聞いてみた。

 

「私の代になったときに、父と違う新しいことをしたいかというと、実はそういう気は全くありません。というのも、父の話を聞いていると、考えていることが同じなんです。子どもの頃を思い出しても、父はあまり家にいませんでしたし、接触の少ない親子だったと言っていいでしょう。それでも、考え方が驚くほど似ているし、人生の歩みも、同じような道を辿っています。やっぱり親子の血、遺伝子の力を感じますね。

とはいえ、私が起こした会社ではありませんから、父と全く同じように全てを見渡すことは難しい。創業者である父が絶対的な力を持ったワンマン独裁者なら、私は社員の皆さんの面倒見役、補佐役のような経営者でありたいと思っています」(玉久氏)

 

エースは74歳の工学博士

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電動バランサー

そんな次期社長・玉久氏が「当社でいちばん活躍しているのは、センサー工場にいる74歳の社員」と紹介し、経営にあたってひとつの指標にしているとまで語る社員が、2005年入社の小林璋好氏(製品企画本部)だ。1940年生まれの工学博士である小林氏は、例に漏れず機械いじりが大好き。小学校に入る頃には、母のミシンの「お釜」を分解掃除していたという。

そんな小林氏は、夢や課題に取り組む同社での日々を楽しみ、仕事に対して「こんなに楽しくさせて頂き、ただ感謝です」と口にするという。

 

「必要なのは、その気持ちです。楽しいと思わなければ、興味も湧かないし、続かないし、アイデアも出てこない。仕事に対して積極的な気持ちが起こり辛いと思うんです。これがすごく大切で、『楽しそうだから入りたい』と思わせる会社なら、自然と人が集まってきて、その中から優秀な人材も育ってくる。そういう経営をしていれば、小林さんみたいな人が常にいてくれるんじゃないでしょうか」(玉久氏)

 上場・拡大路線を歩まないことで成功している中小企業は、実は多い。欧米型資本主義に倣った企業経営が持て囃されている現在の日本。そこに大きな弊害があることは、もはや明らかだ。まずは自分自身の、そして社員とその家族が幸せにならなくては、その先の社会への貢献など見えてこない。

吉本氏父娘が率いる「スーパー町工場」。疲弊した日本の中小企業に、良きヒントを示して欲しい。

 

オビ ヒューマンドキュメント

吉本喬美(よしもと・たかみ)氏…茨城県出身。水戸第一高等学校卒。東京電機大学卒。3年間のサラリーマン生活を経て、1970年に同社設立。

玉久明子(たまひさ・あきこ)氏…1969年埼玉県生まれ。1994年多摩美術大学デザイン科卒業後、数々の職を転々とし、2000年有限会社電気影像設立。2012年ユニパルス株式会社に入社。2013年専務取締役就任。現職。

 

ユニパルス株式会社

〒103-0005 東京都中央区日本橋久松町9-11

TEL 03-3639-6127

http://www.unipulse.com/jp/

株式会社ロボテック

〒103-0005 東京都中央区日本橋久松町9-11

TEL 03-3639-6123

http://www.robotec.tokyo/