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三共鍍金株式会社世界を相手に奮闘するメッキ業界のオールラウンドプレイヤー!

◆取材:綿抜 幹夫

 

三共鍍金 苅宿氏 (4)

三共鍍金株式会社 代表取締役 苅宿充久氏 

 『きつい・汚い・危険』を打ち破る労働環境を実現!

暗く汚れた建物、特有の鼻を付く酸っぱいニオイ、外国人労働者……。メッキ工場に対するイメージとしては当たらずとも遠からずといったところだろう。だが、そんな業界に蔓延する悪しきイメージを打破し、技術と環境で若者をも惹きつけるメッキ会社が板橋にある。三共鍍金株式会社の二歩も三歩も先を行く企業戦略を、生え抜き叩き上げの苅宿社長にぜひとも伺おう。

 

変化を恐れず、時代と共に歩む企業たれ!

05_Sankyo_mekki02写真上:本社従業員の皆さん/写真左:大物 無電解ニッケル・本社工場/写真中:硝子金型研磨・本社工場/写真右:金型研磨・本社工場

板橋区の住宅地に本社工場がある三共鍍金株式会社。ここに本拠を構えたのは平成9年だが、近隣からただの一度も苦情を受けたことがないのが苅宿社長の自慢の一つだ。

「ここを新築できたのは、それまでお取引がなかった荏原製作所と商売できるようになったのが大きかった。ある製品を開発したことで月間1千万円以上のお取引が始まったんです。これが継続したことで、資金の目処が立って、ここを建設することができたわけです。この新本社新工場の思わぬメリットは、それまで年寄りばかりの職場だったのが一気に若返ったこと。やっぱり環境は大事、見た目も大事(笑い)。働きやすい環境、公害を出さない工場ってことで、人も集まってくるんですね。まだまだやり方次第でメッキ屋だって充分息を吹き返すって証拠ですよ」

 

メッキ業界といえば、恒常的に若い労働力が不足している。将来性のある優秀な人材を確保することは難しい。そのため『きつい・汚い・危険』といわれる業界の『3K』のイメージを払拭することが必要だ。それを率先して行っているのが三共鍍金なのである。もちろん、そういった『外見』だけが際立つ会社ではない。仕事内容も刮目に値する。

「『海外にシフトされない仕事をしよう』というのが我が社のモットーです。国内に留まっても通用するだけの『価値』を維持すること。我が社にはそれだけの技術があると自負しています。実際、海外からも技術供与を含めてオファーがありますが、たった30数人の会社で、技術のある人間を海外に出せば国内の仕事が疎かになってしまいますしね」

 

ただの町工場と侮るなかれ。ここには類稀なる技術があるのだ。

三共鍍金 苅宿氏 (5)

「我が社は、その多くが大企業との直取引。それだけ広く認めていただいているのです。では、海外に負けない我が社の仕事とは何か。例えばガラスの金型。国内シェア9割はあるでしょう。創業当時から大手ガラスメーカーの金型は我が社が手掛けてきました。ところが、時代はガラスからプラスチックに移行。仕事が減ってくれば、次のことを考える。じゃあ次は、缶だ、ペットボトルだとなるわけです。これらの製品の金型研磨やメッキなどの仕事で入りこみました。缶やペットは輸入しません。容積ばかりかさんで、輸送のコストがまったく折り合わないからです。こうして様々なジャンルで広く浅くを心がけてここまで来ました。

町のメッキ屋の仕事として、皆さんが驚かれるのは、あのマクラーレン(F1を代表するトップチーム)の仕事。チームの浮沈を握り、ドライバーの人命を左右する部品を手掛けています。あるいは新幹線の部品といった、最先端の仕事にも携わっているのです

こういった仕事が会社の信用を高めていく。ただの請負仕事ではなく、常に時代の先端、日本の先端を行く『走り(最初にやり始める)の仕事』をやり続けてきたという自負が苅宿社長にはあるのだ。

 

 

絵に描いたような叩き上げ立身出世物語

05_Sankyo_mekki03写真左:入間工場の皆さん/写真右:金型の治具作り(タイヤ金型)・入間工場

三共鍍金の創業は昭和35年。半世紀を超える歴史を誇っている。創業者は初代社長の田中光煕氏だ。

「社名の三共は初代社長の田中光煕とその義兄弟合わせて3人で創業したことに由来します。『三人で共に歩んでいこう』という強い思いからだそうです」
苅宿社長が入社したのは昭和41年。会社は順調に成長を遂げていた。

 

「私はここで働きながら夜間の高校・大学を卒業させてもらいました。ですから同年代の人よりも長く働き続けています。間もなく仕事人生も半世紀になりますかね」

この長きに渡る三共鍍金での仕事が、先の経営陣にも高く評価されていた。

 

三共鍍金 苅宿氏 (3)

「私は本当の叩き上げです。メッキ工場にかかわる、ありとあらゆる仕事をやってきました。日本中探しても、これだけの知識や経験がある人間はそうはいないでしょうね。何故私がここまでになれたのかと言えば、それは初代社長が『できる人』だったからです。そういう社長を見ていると、自分ができないことが悔しくて一生懸命知識を身につけ腕を磨いたんです。専門的な化学や工学の勉強をしてきたわけではありません。働きながら通った学校も、経済学部経済学科ですし(笑い)。すべては現場で身につけてきたのです。そういう意味では『生きた知識』を持っていると言えるでしょうね」

ただ学問的に身につけた『机上の空論』とはまったく質の異なる苅宿社長の知識。これは何物にも代え難い氏の武器となった。

 

こうして会社にとって欠くことのできない大きな戦力となった苅宿氏が、ついにトップにまで登り詰める時がやってきた。

「経営者も人間ですから、長い年月の先に後継者の問題が浮上します。残念ながら初代社長にはお子さんがいませんでした。私は、働きながら学校にも通っていたので、簿記ができて経理を任されていた時期もありましたし、現場の仕事も営業もやってきました。つまり、会社のあらゆる仕事を経験していたわけです。初代は私に目をかけてくださって、やがては本社の業務全般を任せてくださいました。その初代が平成6年に癌でお亡くなりになったのですが、遺言を残してくださっていた。私に会社は任せるがただ一つ、会社の名前『三共鍍金』だけは残してくれよと」

一旦は初代社長未亡人がつなぎの形で社長に就任したが、平成8年、満を持して苅宿社長が登板した。

 

 

メッキ業界の範とならん!

 

初代社長の頃から、その辣腕を振るってきた苅宿社長。特に営業としての実績は会社にとって生命線となっている。

「この会社の取引の四分の三を私が開拓してきました。今は社長の立場なので第一線には立てませんが、そこは若い営業に任せていますよ」

この手広い商売は特定の取引先に依存しない体制を作るためでもある。

「例えお取引相手が大企業であっても、社内シェア20%を超えないように努めています。そうでないと、ある日突然仕事が途切れたりした場合に、途端に会社が傾いてしまいますから。業種や仕事内容、そして製品に至るまで、なるべく広く浅くやることが大事なんです。そのためにも仕事を待っているだけではだめで、お困りの企業に提案型で切り込んでいかないといけません」

長年の業務の中で広げてきた客先とそれを取り巻く人脈が、多くの情報を苅宿社長にもたらす。その情報にこそ、新しい商売のタネが数多く含まれているのだ。

 

また、そうして得た情報を活かせるだけの技術の裏付けも三共鍍金の『売り』ではあるが、それ以上の確固たる『信念』がある。

「製品のクオリティや技術には絶対の自信を持っています。だから顧客の言い値で仕事をしたりはしません。価格はこちらが決めて納めています。こういう商売をするためには、もちろん製品の良さが必要ですが、それ以上に絶対『出来ません』とか『お受けできません』とは言わないことが大事です。仕事で受けたご恩は必ず仕事でお返しする。それが信頼につながるのです
また、その手腕は会社の労働環境改善にも大いに発揮されている。

 

「我が社の優れた技術を伝承するという意味でも、若手を育てていかなければなりません。そのためには若い人から魅力的に見える会社にしなければならない。ですから、我が社では盆暮れの休暇はもちろん、賞与、昇給もきちんとしています。社員旅行は全額会社負担。退職金積み立ても、厚生年金基金にも入っている。就業規則は整備されているし、これまでリストラをしたことは1度もありません。週40時間労働も徹底しています
若者が中小企業に見向きもしないのは、大企業と比して労働条件が劣悪なことも見逃せない。その意味でも、立ち遅れている業界の模範企業となるべく、率先して改善に取り組んでいるのが三共鍍金なのだ。

「こうやって福利厚生に力を入れるのは当然ですが、技術を伝えるために、60歳を超えた社員を再雇用し、若手を指導する役をお願いしています。実際、60歳が61歳になった途端、急に能力や技術が落ちるなんてことはあり得ない。本人に働く気さえあれば、充分に戦力として働いていただけるんです」

こういう取り組みが奏功し、地元工業高校からのインターン、そして入社という事例も生まれている。

 

 

次の50年のために

苅宿社長就任後、社業の発展はもちろんだが、その健全性や優良性が高く評価され、地域や関連団体、役所などから多数表彰を受けている。会社は順調、憂いなしとも見受けられるが、最大の難問はやはり後継者問題だ。

「懸命にやってきた私の目から見ると、今の若手には物足りなさを感じてしまう。ですから後継者は、まだ決めかねている状態です。私自身は初代社長の恩情で働きながら学校にも通わせてもらった。仕事を疎かにしなかったのは当然ですが、学校でも一生懸命に勉強したので、奨学金話もあったし、大手企業からのヘッドハンティング話もあった。だが、初代に報いるためにそういう話は全て断って今日まで頑張ってきたのです。そうして守ってきた会社を受け渡せる人間となるとやはり難しい。今、目をかけているのは先代工場長の息子だが、まだまだ経験不足は否めない。じゃあ、私の息子に継がせるかとなってもまだ学生なのでこれも当分実現性がないわけです」

 

多くの中小企業にとって、頭の痛い後継者問題。だが、苅宿社長の『人間力』をもってすれば、必ずや最良の解決策を見出すはずだ。

それに、まだまだ老けこんでいる場合ではない。会社とは別に、業界を担う若手育成のための学校、東京都鍍金工業組合高等職業訓練校の校長の重責も担っているからだ。

メッキ業界の明日のために、苅宿社長の奮闘は続く……。

 

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05_Sankyo_mekki01プロフィール

かりやど・みつひさ氏…昭和24年埼玉県生まれ。昭和41年父親の病気のため、高校を中退して三共鍍金株式会社に入社。その後、会社と夜間学校を両立し、日本大学経済学部卒業。平成8年代表取締役就任。三共鍍金一筋約半世紀の叩き上げ社長。

 

●三共鍍金 株式会社

【本社工場】

〒174-0065 東京都板橋区若木1-26-8

TEL 03-3937-3888

【武蔵工場】

〒385-0014 埼玉県入間市宮寺宮ノ台4033-4

TEL 042-934-4474

http://www.sankyo-mekki.com

 

2014年4月号の記事より

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