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株式会社國盛 「モノ」より「コト」を売れ!

インフラとして求められる企業を夢見て 商社受難の時代を新たな戦略で生き延びる

◆取材:綿抜 幹夫 / 文:大高 正以知

 

風景 (18)

社会構造が大きく変化すると共に、長期化する不況が追い討ちをかけ、いま、多くの企業が行き詰まりを見せている。創業時のヴィジョンばかりを追えば現実に対応できなくなり、日々の利益に汲々とすれば、いつしか大望は忘れ去られていく。そのいずれをも視野に入れながら会社を回していくとはどういうことなのか。夢と現実のギャップの中で苦闘し、それでも確かな歩みを続けている國盛の馬淵野炎社長に話をうかがった。

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ワンストップでサポートする多機能ベンダー 株式会社國盛 代表取締役 馬淵野炎氏

 

1業種1社に特化してサポート  独自のワンストップビジネス

日本が高度成長の波に乗って躍進していた時代、商社という存在がどれだけ大きな役目を果たしていたかについては、議論の余地はないだろう。日本が生み出す高度な技術を世界の隅々にまで浸透させ、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言わしめる礎を築いた主役の一人は、まぎれもなく商社である。

ところが、今やそんな時代はとうに過ぎ去り、出口の見えない長期不況がこの国を厚く覆っている。

 

「私が会社を興した1987年ごろには、すでにトレーディング・カンパニーの時代は終焉を迎えつつあったと思います。従来型の卸問屋はもはや無用になり、メーカーもどんどん統合、グループ化される。なによりも効率化が求められ、およそすべての人間は全部サービス業に出ていくしかないような時代になっている。まずそのことを見ておかなければならないと思います」

國盛とはいったいどんな会社か。その特性を簡潔に述べることは難しい。なぜか。他に類を見ない業務に特化した会社だからである。しかしその「わかりにくさ」こそ國盛の強みであり、この困難な時代にキチンと業務が回転している理由なのである。

 

「企業が資材を調達するための物流機能や様々な種類の専門知識、ITの知識などを求める場合、大きな組織であればあるほど社内にそれらの機能を抱えることが難しくなり、外部委託が多くなります。そこで我々は、大量の物資や情報を調達しなければならない企業をサポートし、手際よく集めてくる業務に特化しています。その際、大切なことが2つあり、1つ目は、1業種につき1社に限定すること。A社とうまく取引ができたからといって、そのノウハウを同業のB社に流用したのではサポーターにはならないし、信用にかかわります。習慣化し、問屋になってしまっては意味がないのです。2つ目は、大企業を相手にするということです。小さな会社には奥行きがありません。大企業であれば、備品の購入費などでも年間数億の予算があり、その一部を担うだけでも大きいのです」

 

いま伸びている大手企業の多くは、競争力をつけるためにB.P.O(外部力の活用)に力を入れている。そうした趨勢を敏感に察知しての生存戦略である。國盛が取り扱うのは、ポリオレフィンフィルムをはじめとする化成品、紙・板紙加工品、金属加工品、物流梱包資材、機械類と多岐におよぶ。相手企業の中で非効率的だった各種業務を、集中簡素化して生産性の向上に結びつけ、最適の物流機能やソリューションまでも提案していく。つまり、体の大きな企業にとっては、まさしく痒い所に手の届く、多機能ベンダーという役割を果たしていることになる。

 

「M&Aの勉強会や起業家との交流会などに出かけていくと、ほとんどの方が『あなたのような会社は見たことがない』と言います。ウチの会社は物流の会社ではないし、商社でもありません。しかし実は商社の流れを汲んでいることは確かなのです。私個人としては、今後はウチの会社のような業態の企業でなければ生き残れないのではないかと思っています」

商社の時代はすでに終わった。にもかかわらず、そこで培った流れは、実は今日的にリニューアルするカタチでしたたかに生き延びてもいる。どうやらこのあたりに國盛を見る鍵がありそうだ。

 

 

大きな志を持って創業  しかし貿易商の時代は終わっていた

風景 (4)

ここで馬淵野炎社長の個人史を紐解いてみよう。1950年生まれというから、団塊の世代のすぐ後の世代であり、生まれたのは、長らく高級住宅地の代名詞的存在だった東京大田区の田園調布だ。

「父が出版社をやっていました。主に出しているのは純文学と自然科学の本で、調子の良い時は、『出版はお札を刷っているのと同じだ』などと豪語していましたね(笑い)。田園調布の家は700坪くらいあり、そこに小学校3年生までいました。しかし徐々に本が売れなくなり、父も頭の良い人間でしたから、ズタズタになる前に畳みました。その後、3年くらいブラブラしていたのですが、不動産業に転じましてね。不動産といっても町の不動産屋じゃなくて、企業の寮やガソリンスタンドのための用地買収をするような、そういう仕事です。そんな父の姿をずっと見てきましたから、社会に出る前から、私自身も事業家になりたいと思っていました」

大学を卒業した馬淵社長は、東京貿易に入社。ここに14年間在籍し、原料や非鉄金属、機械関係を扱っていたという。

 

「もっと早く独立するつもりだったんです。しかし、社歴を重ねるうちにポジションも上がってきて、『このまま会社に残って、自分が引っ張っていく立場になったほうがいいのではないか?』と悩み始めました。決心がついたのはプラザ合意の後で、円高不況のせいで会社も苦しくなっていた時期。当時はたまたまメインストリートではなく開発の部署にいたこともあって、『今なら辞めても会社に迷惑はかけないだろう』と思ったんです」

 

晴れて独立、國盛を設立したのは1987年5月。36歳の時だった。「会社を大きくしたい」「100〜200名の従業員を抱えるくらいの会社になりたい」。当初のプランとは裏腹に、現実は厳しいものだった。

「私には貿易商になりたいという希望がありましたが、もはやそんな時代ではなくなっていました。紙の輸入などもやりましたがなかなかうまく行かず、自分のヴィジョンと現実のはざまでいつも苦しみ、貯金を切り崩す日々が続きました。そんなある時、自宅近くの東京エアカーゴ・シティ・ターミナルに出入りすることになりましてね。今はターミナルの存在そのものがありませんが、あそこは飛行機で運んでくる貨物の輸入・輸出の基地です。そこにFAX用紙を売りに行ったら、今まで足を棒のようにして歩いて売っていた時の何倍もの注文が様々な会社から来たんです。やがて工場で使う梱包用テープ等も扱うようになり、資材屋さんの真似ごとをするようになって、なんとか会社として小さな回転ができるようになっていったんです」

ようやくいささかの利益が出せるようになり、その後、冒頭で述べたような多機能ベンダーとしての業務に特化していった國盛。ここでホッと一息つくところだが、馬淵社長の本心は常に別の所にあった。そもそもなぜ自分は会社を興したのか、何をやりたいのか、という根本をずっと見つめていたのである。

 

 

社会にとって存在意義のあるインフラとしての会社経営を

「ウチの会社の仕事はなかなか理解されにくい。それは、モノではなく、コトを売っている会社だからです」

商品が「モノ」であるとしたら「コト」とは機能でありサービスのことだろう。モノ=商品の調達などを通して、顧客の生産性向上やコスト低減、業務の効率化、物流の最適化を提案していくこと。それらを速やかに実現し、サポートする仕事だ。

多機能ベンダーという、ようやく確立した特異な業態は、しかしながら馬淵社長にとってはゴールではない。ではいったい、どこを見据えているのだろう。

 

「会社というものは、そもそも何かの役に立っているから存在しているわけですよね。しかしそれでは私は満足できないのです。多くの人があの会社で働きたいと願うような、社会にとって大きなインフラのような存在としての会社を作りたいんです。その形態は、製造業かもしれないし、物流や運送かもしれないし、あるいはやはり商社の延長かもしれません。そこはまだわからないですが」

いまという時代に生きていくために必要不可欠なもの。インフラと呼ぶからには、それくらいの存在意義がなくてはならないだろう。道路や橋を作るといった、そういうわかりやすい「モノ」としてのインフラに携わるという意味でないことはもはや明白だ。いわば、「コト」としてのインフラ。それを提供する会社になるということである。

「もちろん、今から従業員数千人を抱えるような大企業を作り上げるなんて、そんなことは考えていません。あくまで身の丈でありながら、しかし多くの人々から切実に求められる事業を、これからも模索していきたいと思います」

 

貿易商になりたい、という野望から出発した馬淵社長の夢は、時代の変化と荒波に揉まれ、挫折し、そこから時代にフィットするような業態を見つけ出し、しかしそこにも収まることなく、夢は以前、夢として残されたままだ。

設立以来、25年以上にわたって会社を維持し続けてきたこと。そして、まだ実現していない理想があるということ。世の多くの経営者にはそのいずれかしかなく、あるいは夢だけならその会社は早晩消えてしまうはずだ。だからこそ、「インフラとしての会社」という言葉には重みがある。

そして、馬淵社長のこんな言葉が強く印象に残った。

「他人にはできないことをオレがやってみせる。会社を興す人で、果たしてそう思わない人がいるものでしょうか?」

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●プロフィール

馬淵野炎(まぶち・やえん)氏

1950年、東京都大田区田園調布生まれ。獨協大学経済学部卒業後、東京貿易に入社、原料やプラント関係を担当し、14年間勤務する。1987年、株式会社國盛を設立し、以降、代表取締役。

 

●株式会社國盛

〒273-0032

千葉県船橋市葛飾町2-381-4

TEL 047-495-6666

http://www.kokusei.co.jp/

 

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