オビ 企業物語1 (2)

ウチノ看板株式会社 ‐ 見えないものを見るのが経営者

◆取材:綿抜幹夫 /文:渡辺友樹 /撮影:高永三津子

 

ウチノ看板株式会社 代表取締役 内野正幸氏

ウチノ看板株式会社 代表取締役 内野正幸氏

 

企業の顔であり、街を彩る道しるべともなる看板。日本一の看板屋と評されるのが、埼玉県所沢市のウチノ看板株式会社だ。TBSテレビ「朝チャン」で流れるCMでもおなじみの同社は、企画・設計・デザインから製造・施工、メンテナンスまで丸ごと手がける社内一貫システムと、日本全国対応というリーチの長さが強みだ。

高品質・低コストを旗印に業界トップにまで上り詰めた内野正幸社長に、その半生を語っていただいた。

人を大事にし、人を頼る

 「経営は人なり」、これが同氏の経営哲学だ。その裏側にあるのは、こんな想いだ。同氏いわく、自分には力がない。だから人を頼ってきた。お金の計算など言うに及ばず、営業も神経に堪えた。本業のデザインでもそうだ。街場ではなんとか通用しても、全国レベルでは戦えないと早々に自覚した。自分の力のなさ、能力のなさを知っている。だから、社員に頼る。優秀な専門職を入れる。そして、待遇はうんと弾む。

 ワンマンで引っ張っていく経営者もいるだろう。しかし同氏は違う。人を愛し、人を大事にし、人を頼る。だから同氏も愛され、大事にされ、信頼される。「人は城、人は石垣、人は掘、情けは味方、仇は敵なり」。この言葉がモットーだ。

 

見えないものを見るのが経営者

 設備投資ありきの攻めの姿勢で、裸一貫から業界をのし上がった。日本一の看板屋となった今でも考え方は変わっていない。

 経営者は目に見えるものを見て決断するのではない。状況を分析し、自分にプレッシャーをかけ、見えないものを見るのが経営者だ。見えるものを見れば、損得の判断になる。損得で判断すれば、小さくなる。こうすれば儲かるという小さい話になってしまう。重要なのはそこではない。クライアントに安全性、耐久性を考慮した高品質な製品を、低価格、短納期で提供すること。その中で利益を生む会社にするのが経営者の役目だ。どんな商売でも当たり前のことだが、その当たり前を怠る経営者は多い。

 過酷な作業に臨む現場のスタッフをはじめ、同社はどの部署もハードだ。しかし、その分給料は高く、残業手当もきちんと出し、安全には最大限の配慮をする。これもまた当たり前のことだと同氏は言う。その証拠に、同社では住宅ローンを組んでいる若い社員も多い。利益を社員に分配し、社員が少しでも幸せになればと、常に社員のことを考えている。それで会社も安定する。

 そのためには一にも二にも企業努力。慢心は最大の敵だ。評判が良いときほど、天狗になってはいないかと自らを見つめ直す。見積もりの合わぬ仕事を断ろうとする社員がいれば、クライアントの予算内でできないかもう一度考えようと戒める。

 人付き合いもまた、見えないものを見る行為だ。少し話せば、相手の奥行きが見える。そのとき、自分も見られている。「嘘はつくな、本音でやれ、言い訳はするな」。社員にはいつもこう言い聞かせている。

 

ウチノ看板株式会社 営業室内営業室内

生まれ変わったガキ大将

 そんな同氏だが、少年時代は様子が違っていた。小学校時代はケンカが強く、威張っていた。

 小学五年生の遠足のとき、クラス中からつまはじきにされたことがあった。そこで教師から、「あなたがふだんこういうことをするから、仲間に入れないのよ」と諭された。教師の言葉が胸に突き刺さった。情けない。

 深く自分を反省し、中学生の時には、係や役割を引き受け、皆に好かれる人物に生まれ変わっていた。困った時には皆が手を貸してくれた。

 今になって振り返れば、小学五年生でのこの一件が人生の転機だった。人に助けられてきた人生の原点がここにある。

 

中学卒業後、看板屋に住み込みで就職

 学校の勉強は嫌いだったが、絵を描くことは好きだった。中学を卒業したら、高校には行かずに、訓練所に行こうと思った。しかし、近所に20歳で独立した社長がいると聞いて気が変わった。卒業の10日ほど前、体育館には既にそれぞれの進路が貼り出されていたが、土壇場で変更した。「先生、就職します」と言いに行った。

 看板屋になろうと思った。看板屋なら絵が描ける。実家も貧しいのに、わざわざお金を払って訓練所に行くことはない。看板屋になれば、一石が二鳥にも三鳥にもなると考え、母の知り合いの看板屋に就職した。江戸川の、社員2〜3人の小さな看板屋だった。6畳と4畳半の貸家に家族5人が住んでいた。そこに住み込んだ。

 しかし、仕事内容は想像と大きく違っていた。看板の仕事は殆どなく、雑用ばかり。結局、江戸川の看板屋は2年半で辞めた。

 

20歳で独立

 その後、所沢に戻り、地元の看板屋に就職した。現在もある街場の看板屋だ。そこで番頭として修行した。トタン看板に文字を書いたり、アクリルの小さい看板を作ったり。イメージしていた看板屋の仕事はこれだった。江戸川での生活からは考えられないほど楽しかった。看板屋が天職だと感じた。

 社長には、19歳の時に「20歳で辞めます」と伝えてあった。あと1年いてくれたら下請けとして仕事を出すからと慰留されたが、意思を曲げなかった。この誘いに応じれば甘えが出て、努力しなくなる。「それはいいです」と断った。

 昭和48年(1973年)、クライアントも持たず、仕事の予定もないまま独立した。現在は自宅が建つ場所に、小さな物置を立てた。そこがスタート地点だった。社員もなく、仲間に応援を頼んだ。出世払いでいいからと、皆快く手伝ってくれた。ここでも、人に助けられた。それだけ愛され、信頼される人物になっていた。

 

ウチノ看板株式会社 武蔵工場武蔵工場

機械の力で生産性を高める

 創業2〜3年目で、二度目の転機が訪れた。北海道料理店の看板を手がけた時のことだ。深く考えずに、人工(にんく、作業量を人員一人あたりの労働量で表したもの)を積み上げた請求書を持って行った。「内野さんよ、いまはいい機械がいっぱいあるんだぜ。こんな風に人工で出されても高くて払えない。他に考え方があるだろう」。独立間もない若い同氏を叱ってくれた。

 これからは、安く仕事を取るには人の力より機械の力。これじゃだめだと設備投資に踏み切った。自前の重機があれば、リースを使う他社よりも安く見積もりを出せる。リースを噛まさない分、安い見積もりで自分たちにも利益が出る。クライアントにも喜んでもらえる。やがて、重機のラインナップは日本一となった。

 もちろん、重機は高額だ。遊ばせないように、仕事をいかに取るかの努力が重要になる。高い先行投資には、勇気や志も必要だ。折角の重機が遊んでしまえば、大赤字になる。何としてもやらなければと努力する。必死になって営業をかける。

 

メーカー志向、現場主義

 設備を揃え、メーカーであり続けた。元請け専門へとシフトした他社も見てきたが、現場を離れれば必ず足元が弱り、景気が悪くなったときに立っていられない。

 バブル時代には、下請けも経験した。大会社の仕事であれば、間に5社も6社も挟まっていた。しかし、肥大した下請け構造はバブル崩壊とともに終わった。直請けした方が利益が大きい。しかも同社には自前の設備がある。同社はバブル崩壊後に売上を大きく伸ばした。

 常に、クライアントが希望する規格の上を提案する。看板はそれだけ新規客を呼び込む。イメージアップにもつながる。看板は「会社の顔」であり、「街の道しるべ」にもなる。「看板を見て新規のお客さんが入ってきたよ、売り上げが上がったよ」と喜ぶクライアントの声を聞くのが一番の喜びだ。

 小学五年生の時、教師に叱られたこと。創業間も無い20代前半の時期にクライアントから諭されたこと。この二つの出来事が同氏を変えた。ショックで悔しかったが、素直に聞く心を持っていた。それがその後の成功を呼び込んだ。人に助けられ、見えないものを見る経営者としての器が熟成されていった。ついには日本一の看板屋となったウチノ看板株式会社。同社を率いる大看板のルーツを辿れば、学ぶものは多い。

 

オビ ヒューマンドキュメント

内野正幸(うちの・まさゆき)氏

昭和28年(1953年)埼玉県所沢市に生まれる。昭和48年(1973年)所沢市荒幡にてウチノ看板を創業。昭和60年(1985年)ウチノ看板株式会社に商号変更。代表取締役。

 

ウチノ看板株式会社 本社外観本社外観。駐車場にはクレーン車や高所作業車がズラリと並ぶ。

ウチノ看板株式会社

〒359-1164 埼玉県所沢市三ヶ島1-23-2

TEL 04-2947-8888

http://uchino-kanban.com/

年商:34億円

従業員数:165名

 

2015年6月号の記事より
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