オビ 企業物語1 (2)

先見の明で粉砕媒体の世界をリードする東洋鉄球株式会社の物語

◆取材:綿抜幹夫

オビ ヒューマンドキュメント東洋鉄球 株式会社 (2)

東洋鉄球 株式会社/代表取締役会長 東洋鉄球(馬鞍山)有限公司/董事長 春日伸一

 

機を見て転ずるは、中小企業の王道なり

戦前、九州の炭坑を皮切りに創業者・藤井伊蔵氏は、セメント原料・非鉄金属の鉱石などを粉砕するためのボール(粉砕媒体)生産を生業とする「東洋鉄球株式会社」の基礎を作った。そのボール自体の主な材料が鉄とはいえ、なんともストレートな名称である。しかしながら創業80年近くの歴史の中で、会社自体はさまざまな新規事業展開をするなどして、現在に至っている。

中小企業としての生き残り戦略のマスターキーをつかんだと思われる、現会長の春日伸一氏にその真意を聞いた。

 

祖父、父から受け継いだ「先見の明」のDNA

多くの中小企業が歩んできた道のりは、独自の技術や唯一無二の技術を持っている場合を除き、大手・中堅企業の傘下でひとつの技術や業種を追求し突き進んできた。それは高度成長期にあっては、世の中に望まれていたことでもあり、中小企業もそれなりに成長した。

ところが時代は大きく変革した。入れ替わり立ち代わり出来ては消えるIT企業の例を挙げるまでもなく、以前は企業の存続の目安として「石の上にも三年」と言われたが、今では「石の上に三カ月」と言われるような時代だ。ひとつの事業や形態にとらわれていては、企業そのものの存続すら望めない。

そんな中で、企業30年説などとうの昔に乗り越え、時代の波をフレキシブルに泳ぎながら成長を続けている企業がある。東洋鉄球株式会社だ。

 

創業者で会長の祖父にあたる人物はかなり剛毅な性格を持っていたという。九州採炭という会社の社長も務めた藤井伊蔵氏だ。彼は先頃テレビドラマでも話題になった白蓮の夫で炭坑王と呼ばれた伊藤伝右衛門のような人生を歩んだらしい。

「だからおめかけさんもいてね、私もいとこや叔父、叔母が結構いますよ」(春日氏・以下同)

その祖父が自分の銅像を、長崎の平和記念像の作者・北村西望に作らせたというエピソードもある。

「私の生まれは今の北九州市若松区で、筑豊の炭坑で栄えた地区。川筋気質を持つ人も少なくなかったですね。誰かが刺されたなんていう事件も日常茶飯事でした」

 

たしかに明治20年代には、筑豊から若松まで遠賀川という川を使って石炭を積み出し、港の洞海湾へと運搬する水運が最盛期を迎えた。競争も激しく、収入も多いが危険も多く、きっぷのよさと喧嘩早いが情にもろい、そんな船頭たちの川筋気質は、石炭に関係する人々にも引継がれていたそうだ。

「1937年に祖父が鉄のボールを作って販売していた会社を買ったのも、川筋気質の表れかもしれませんし、先を見る藤井家の血筋かもしれません。戦中戦後にかけてですが、株式の上場までしたらしいです」

 

その頃の得意先といえば、銅などを生産していた三菱金属、三井金属、日本鉱業、同和鉱業、古河などの大手ばかり。東洋鉄球では、銅を含む鉱石を粉砕するためのボールを提供し続けた。しかし、蜜月時代は長くは続かない。日本の地下には銅を含む鉱石が多くあったのにも関わらず、世界的な銅価格の値下がりが影響し、先に挙げたいずれの大手企業も銅生産を縮小していったのである。

そこで次に目をつけたのがセメント工場だ。太平洋セメントや三菱セメント(現・三菱マテリアル)などが得意先となり、セメントのメイン原料になる石灰石を砕くためのボールを提供した。

 

その間に現会長の父親が社長に就任。同族企業のならいで役員のほとんどが親戚という中、本業の傍ら、祖父が残した土地を活用して不動産賃貸業にも乗り出した。

「古い会社なので工場の跡地などの土地が結構あったようです。九州から北海道まで、東京にももちろんありました。親父はそれらを活用するためにマンションや倉庫、ビルなどを建てて貸し出した。不動産業の経験もないわけだから役員全員から反対されたようですが、親父からは『もし失敗したらやめようと思ってはじめた』と聞きました。祖父もそうだけど親父も将来への目利きが良かったのでしょう」

そうした先見の明は「運が良かっただけ」と謙遜する現会長にも受け継がれている。

 

 

時代を見据えた新規事業と中国進出

父親が始めた不動産部門は軌道に乗ったが、同時期に、国内では鉱山が次々と閉鎖され、本業の粉砕媒体においては国内需要が下降線をたどった。

「私が入社した頃には札幌、九州、宮城と生産工場が3つあったのですが、1986年に社長を引き継いだ時には札幌工場の閉鎖を決め、1994年には宮城工場も閉鎖せざるを得なくなった。残りの九州を閉めたら、粉砕媒体の仕事は私の代で終わりかなと思いました」

だが、ただ指をくわえて世の中の趨勢を眺めていただけではない。そこは祖父、父から続くDNAのなせるわざ。実は春日氏は東洋鉄球に入社する前に、住宅建材メーカーの大手・吉野石膏株式会社で17年間のサラリーマン生活を送っている。その経験を生かして内装工事部門を立ち上げたのだ。

 

「粉砕媒体の事業はこのままでは先細りになると予想できましたから、何か新しい事業をはじめなければと考えていました。そんな時に私の得意分野の内装工事会社が売りに出されたこともあって、丸抱えで買取りました。そこは技術も確かで丸ビルを手がけたような戦前から続く会社でしたが、後継者問題などがあって私が引き受けた。17年ほど事業展開して売上も上がり、業績的にも会社に貢献しました」

 

内装工事事業から遅れること数年、今度は粉砕媒体事業の中国進出の計画が立ち上がる。最終的には大手商社からの誘いに乗ったわけだが、

「初めは中国進出など考えもしませんでした。ただ技術を移転するといっても、受け皿になる人材がいなければ無理。たとえば農民に教えたってダメですから」

ところが、北京大学と並ぶ優秀な清華大学の鋳物の教授が副社長をしている会社を紹介されて、「これなら行けるかもしれない」と思い合弁会社の準備を始めた。とはいえ、その後はさまざまな紆余曲折があり、ようやく商社からの投資を受けて、馬鞍山という製鉄の街に工場を開設したのが今から20年前、資本金は800万USドル。ちなみに馬鞍山は中国の詩人・李白の終焉の地だ。

「〝桃栗三年柿八年〟とはよく言ったもので、軌道に乗るまでに8年かかりました。その間は利益もなく債務超過もありましたが、今はそれも消えまして利益が出るようになりました。商社や銀行はまさしく狩猟民族でして、結果が出ないなら切り捨ててほかへと目を向ける。それに対してモノづくりは農耕民族です。種をまいて花を咲かせて実を穫るまでに、2年や3年ではうまくいくわけがない。一時は不良資産と言われながらも円安傾向が幸いして、商社が投資した分を我々が引き取りました」

 

セメントの世界の生産量は、いまや40億トンでその6割は中国で作られている。東洋鉄球は需要地に工場を出したことになったのだ。

現在、中国での関連会社は計4社を有しており、また、2005年には馬鞍山市の名誉市民にも推薦された。

 

一方国内に目を向けると、バブル崩壊の影響で銀行の再編成が盛んに行われ、一番の借り手であるゼネコンも淘汰され厳しい状況を迎えていた。建設業の一端を占める内装工事業でも必然的に受注価格が下げられて、利益が見込めなくなってきた。春日氏が17年ほど続けてきた内装工事を辞める決断をしたのは、そうした経済状況を見極めてのことだった。

「あの頃は都内でも10番以内に入るほど内装業者として名をあげましたから、同業者からは『なんで辞めるのか』と言われましたけどね。私はこのまま続けていても儲からないと思ったのです。すでに本業の方では中国進出もしていた時期、〝二兎追うものは一兎も得ず〟とよく言うじゃないですか。銀行が破綻するような世の中じゃ、この先をよく見ないといけないなと」

内装工事部門撤退に前後して、国内最後の工場も閉鎖した。本業の生産拠点も中国一本に絞り、本社は商社機能のみとし、国内はもとより中国、そして世界へと3方向で販売実績を重ねていった。その結果、現在では世界70カ国以上の顧客をもつ粉砕媒体のパイオニアとして君臨している。

 

常に市場を見極め、先を見据えて新規事業の立ち上げや撤退さえも武器にし、しかも切り替えが素早い。中小企業が生き残るひとつのビジネスモデルを作り上げてきた。

「中国に絞ってなんとか結果がついてきた要因は、私や会社がツイていただけでなく、親父が起こした不動産事業の成功とそのバックアップがあったからこそ。親父には感謝していますね」

 

 

ヒントは、本業のブランド化と枝葉の確立

父親は不動産業、息子は本業での中国進出と、撤退したとはいえ内装工事業……。こうした東洋鉄球が歩んできた『機を見て転じる姿勢』は、ひとつのことに執着する傾向が強い中小企業ではなかなか受け入れられない。まして新しい事業を立ち上げるにしても、何をするのか探すことから始めるため、二の足を踏みたくなる気持ちもわかる。

「新規事業をやろうと探していてもなかなか上手くいかない。そんなときは本業をベースにして考えて、違う業種へと派生させていく。我々もボールが中心ですが、今はそれに枝葉を伸ばす格好で、関連した耐磨耗材、耐熱材などを手がけています」

生産は中国に移行したが、東洋鉄球はブランドを確立させて、粉砕ボールだけでなく、そのブランド力を持って関連商品の販売をも推進している。さらにドイツ企業とのコラボで世界への視野は今まで以上に広がろうとしている。

昨年社長の座を4代目にあたる息子にバトンタッチして、今年は中国・馬鞍山工場の20周年を迎える春日会長。その目には耐磨耗材の総合メーカーとして発展を続ける東洋鉄球の姿がはっきりと見えているに違いない。

 

オビ ヒューマンドキュメント

春日伸一(かすが・しんいち)氏…1941年生まれ。1964年慶應大学商学部卒業。卒業後吉野石膏入社。同社に17年勤務の後、1981年父親が経営する東洋鉄球株式会社に入社。1986年同社代表取締役社長に就任。2014年社長を息子宏之に託し、自らは代表取締役会長に就任。東洋鉄球(馬鞍山)有限公司代表を兼任。

東洋鉄球 株式会社

〈本 社〉 〒112-0002東京都文京区小石川1-2-4 東洋ビル

℡ 03-3815-5861

http://www.toyo-gb.com

〈関連会社〉

東洋鉄球(馬鞍山)有限公司

東洋フレックス株式会社

東洋鉄球 株式会社 (3)

資本金800万USドルで設立された同社・馬鞍山工場(中国)。現在では中国での関連会社は計4社を有し、また2005年には、馬鞍山の名誉市民に推薦された。

東洋鉄球 株式会社 (4)

馬鞍山工場内の設備の一部。今は粉砕ボールを中心に、関連した耐磨耗材、耐熱材なども手がけている。

東洋鉄球 株式会社 (1)

馬鞍山工場全景

 

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