◆取材・文:阿部伸/撮影:高永三津子

 

IIEBの現会長のスマホ氏と握手を交わす熊野会長

 

3年前に他界した同志の〝夢〟を伝えるため、1人の日本人が9月末日、成田からモンゴルへと飛び立った。それは多くの日本人が知らない日本とモンゴルをつなぐ絆の物語である──。

 
国土の約8割を草原地帯(ステップ)が占めるモンゴル。しかし、首都ウランバートル市に足を踏み入れると、牧歌的なイメージと相反する光景が眼前には広がる。十数年前から建築ラッシュが起こり、都市化が進む同市には現在、国内人口310万人(2016年、モンゴル国家統計庁)のうちの半数近くが暮らし、高層ビルが建ち並ぶ。

 

 

1日に数度起こる交通ラッシュ時にはクラクションが鳴り止まぬほど車があふれ、その情景からはおよそ大草原のイメージは沸かない。

 
急速に変化・成長を続けるこの国で、去る9月28日、私立モンゴル国際経済大学(Institute of International Economics and Business=IIEB)の創立20周年式典が開催された。IIEBはマーケティングをテーマに実施される「モンゴル大学間学力コンテスト」で、2年前に国内最高峰とされる国立モンゴル大学を抜いてトップに輝いた大学である。

 

 

このIIEBの式典に最大級の賛辞とともに招かれた日本人がいる。日本モンゴル友好交流協会会長の熊野活行氏だ。なぜ、彼がこの日、ステージに立ったのか。

 

ノミンデパート(旧国営デパート)からの眺望。前方に見える黄色い屋根の建物は旧国営のサーカス施設。民主化後、経営が傾いていた同施設を元横綱・朝青龍氏が買い取り、現在は「ASAサーカス」と呼ばれている。

 

 

進行形の成長と変化が続く国

式典にてスピーチをする熊野氏。

 

ソビエト連邦の崩壊が始まった1990年以降、モンゴルはそれまでの社会主義体制から転換し、市場経済がスタート。近年は銅、石炭、ウランなどをはじめとする鉱山業の発展によって多くの富がもたらされ、高成長国へと変わりつつある。

 

国内最大のデパートであるノミンデパート(旧国営デパート)。

 

しかし、天然資源輸出の好不調に左右されやすい経済体制は常に不安定だ。近代化を遂げたように見えるウランバートル市も路地に入れば、穴だらけの道路が散見され、この国の貧しさが見え隠れする。また、同市の周辺部には「ゲル地区」と呼ばれる移動式家屋(ゲル)で暮らす人々の区域があり、地方から富を求めてやって来た者の主な居住先となっている。

 

ウランバートル市の外周に広がるゲル地区。近年、政府による再開発が進むいっぽう、住民登録をしないまま無許可で暮らす人々が増え、社会問題となっている。

 

同地区は再開発事業が進むものの、上下水道のインフラ整備は不完全であり、無許可で暮らす人々も多い。

 

モンゴルは数年前、実質経済成長率が2桁で推移した時期がある。

しかし、その後は減速し、今年に入って民主化以降、6度目となるIMF(国際通貨基金)からの金融支援を受けている。グローバル化のうねりの中、富と貧困と近代化が複雑に絡みながら、急速に成長と変化を続ける国、それがモンゴルだ。同国が安定を得るためには中長期的な視点を持ち、国際水準の知識を身につけた人材育成が急務である。ゆえに、国内トップの学力を誇るIIEBには大きな期待が寄せられている。

 
政府関係者を含む750名にもおよぶ参列者から万雷の拍手が沸き起こる中、熊野氏がステージに立つ。司会者は彼のことを次のように紹介する──IIEB創設者の一人、カツユキ・クマノさん。

 

式典のステージ上で紹介を受ける熊野氏。会場から盛大な拍手が送られた。

 

 

 

モンゴルが日本を救うとき

IIEBの創設者は二人いる。一人は元特命駐日全権大使のドルジンツェレン氏。そして、もう一人が熊野氏である。ドルジンツェレン氏は3年前に他界している。式典が始まる前、熊野氏はこんな話を打ち明けてくれた。

 
「創立初年度には115名だった生徒は、今では1500名以上になり、モンゴル国内で最大規模の大学になりました。創立から20年が経ち、創設者の一人が亡くなり、当時を知らない教員や職員が増える中、彼が抱いていた夢を皆さんにお伝えできればと思っています」
IIEB設立のきっかけは25年前、二人の出会いから始まる。当時、民主化したばかりのモンゴルは体制移行の混乱から経済状況は暗たんとしていた。熊野氏は日本赤十字社などを通じてモンゴル支援を行っていた関係から、駐日モンゴル大使館で開かれた日・蒙国交回復20周年式典に呼ばれることとなる。

 

その時、何気ない会話から親しくなった人物がドルジンツェレン氏であった。「二人とも話す相手がいなくポツンと食事をしていました。後から彼が外務次官(当時)であることを知り、大変驚きました」。

 

ドルジンツェレン氏は日本に滞在したその後の1週間、毎日、熊野氏を自分のホテルに呼び、二人は急速に親交を深めていく。そして、ドルジンツェレン氏が帰国してから10カ月が過ぎた12月25日のこと、熊野氏の電話が鳴った。

 

「相手は駐日モンゴル大使館でした。とにかく来て欲しいの一点張りで、仕方なくその日の予定をキャンセルして出向くと、満面の笑みのドルジンツェレンさんが立っていました」。

 

聞くと特命駐日全権大使に任命され、年明けに皇居で行なわれる認証式のために来日したのだという。そして、彼はこう告げた──「天皇に会う前にあなたに会いたかった」と。

 

前回の滞在中、熊野氏はドルジンツェレン氏に最大級のもてなしをし、それに感激した彼は礼を伝えるために予定を繰り上げて来日したという。「『天皇に会う前に』なんて言われたら、こちらも脱帽するしかありませんでした」と熊野氏は述懐する。

 

その後、毎週土曜日になるとドルジンツェレン氏は熊野氏のオフィスに遊びに来るようになる。モンゴルについて、日本について、そして両国の未来のために何ができるのか、そんなことを語り明かした。

 

「当時、モンゴルを支援する日本の組織はいくつかありました。しかし、それは古着を送るといった援助活動でしかありませんでした。彼が望んでいたことは一方的に恵んでもらうことではなく、互恵関係であり、国際社会の中でモンゴルが自立することです。そのことを理解した私は、ある日、彼と約束を交わしました。

 

『人材、技術、資本。日本にはモンゴルにないものがすべてある。だけど、日本にはなく、モンゴルにあるものが1つだけある。それは資源だ。今は日本がモンゴルを助ける。だけど、将来はモンゴルが日本を助けて欲しい』。すると彼は『わかった』と何度も大きく頷きました」。
この約束の日からドルジンツェレン氏が亡くなる2014年まで、二人はさまざまな苦楽、そして夢を共有することとなる。

 

近代化が進むウランバートル市にてスフバートル広場の一部が取り壊され、2009年に建てられたセントラルタワー。同ビルの1階にはルイ・ヴィトンなどの高級ブランドのテナントが入っている。

 

史実から消された国家を揺るがす事件

国際社会で自立した国になること──その夢を実現するために二人が最初に着手したのが両国の相互交流、相互支援を実践する組織、日本モンゴル友好交流協会の設立だった。同協会が窓口となり日本赤十字社主催の医療研修を行うなど、さまざまな支援・交流が始まった。

 

同協会の設立から半年ほどが過ぎた1993年の秋、モンゴルである事件が起こる。それはモンゴル政府内で秘密裏に処理されたため、史実としての記録は残されていない。しかし、国家を揺るがす重大な事件であった。
「それまでのモンゴルは社会主義だったこともあり、国際金融取引の知識や経験は政府の高官でも持ち合わせていませんでした。それが原因で、政府関係者が行ったある金融取引が失敗し、一晩で国有財産の大半を失ってしまったのです」

 

これをきっかけに二人は教育の必要性を痛感する。当時のモンゴルには国際経済を学ぶ学校が皆無であった。市場経済をスタートさせたばかりのモンゴルが、二度と同じ過ちを犯さずにグローバル時代を生き抜くには国際金融や国際経済の知識を身につけた人材を早急に育成しなくてはならない。そうした思いから1997年9月、IIEBが設立されることとなる。

 

IIEBでは2008年より日本へのホームステイ・プログラムを開始。式典にはホストファミリーの宇田川好信氏も招待され、ホームステイを体験した学生たちと再会した。「日本に興味を持ってもらって交流が深まれば」と同氏。

モンゴルに秘められた可能性

ドルジンツェレン氏は亡くなる直前、IIEBに鉱山学部を新設している。なぜ、鉱山学部だったのか。
モンゴルの近年の発展は鉱山業に依るところが大きい。

しかし、モンゴルには資源国として致命的な欠点がある。それは海がないことだ。鉱物資源は通常、海上輸送が行なわれるが、モンゴルは内陸国であり、隣接国も中国とロシアしかない。そのことが資源国としての発展に歯止めをかけている。

モンゴルは金も石炭もウランも世界最大級の埋蔵量である。これらの鉱山資源を効率的に輸送するルートやシステムを構築することが同国の発展には欠かせない。
そして、もう一つ、熊野氏が、そして故ドルジンツェレン氏が期待するものがある。「ネオジムとリチウムです。この2つは将来、世界的に普及が進むであろう電気自動車を動かすには不可欠なレアアースです。そして、ともに中国が供給量でトップを占めています。

 

中国のレアアースのほとんどがモンゴルとの国境付近にあり、鉱床は確実にモンゴルまで続いていると予想されます。鉱山資源を効率的に輸送するとともに、この地下資源を掘り当てることが将来、モンゴルの発展に必ず寄与します。そのためには鉱山学部が必要であるとドルジンツェレンさんは考えていました」。

 

日本が製造ラインを無償資金援助して設立されたカシミア工場の直営店「ゴビ・ファクトリー・ストア」。

 

故人の夢を実現するために

IIEBの校舎外観。2010年に同地に移転。

 

IIEBでは現在、介護士養成のための学部の新設を準備している。ドルジンツェレン氏は熊野氏と出会った当初から、母国の劣悪な医療環境を嘆いていた。いずれは医学部を創設し、介護士のみならず、国際水準の知識と技術を身につけた医師を排出することに情熱を燃やしていたのである。しかし、残念ながら道半ばで他界してしまう。

 
創設者であり、理事長を務めていたドルジンツェレン氏の死はIIEBに大きな悲しみをもたらした。しかし、現学長のスマホ氏をはじめ、残された教員、職員が一丸となり、新生IIEBとして、現在、歩み始めている。IIEBは今年6月にアメリカ大学協会から同大学とアメリカの大学の卒業資格が同等であることを認められている。これはIIEBの学力が国際水準になった証でもある。

 
万感の思いを込めて熊野氏はスピーチを続ける──。「今日、創立20周年を迎え、IIEBが非常に発展していることに喜びを感じています。モンゴルが本当の意味で国際的に自立した国になること。それがドルジンツェレンさんの夢でした。その夢が現実のものとなるよう、これからも優秀な人材を数多く排出し、IIEBがさらに発展することを心より祈っています」そう締めくくると、会場には再び大きな拍手が鳴り響いた。

 

遥か昔、史上最大の帝国を築いた騎馬遊牧民族の末裔たちは、グローバル化と近代化のうねりの中、この地に根を張りながら生きている。ドルジンツェレン氏の夢が果たされたとき、再びこの国にはかつてのような繁栄が訪れるであろう。

 

夢を夢のままで終わらせないために、熊野氏の、そしてIIEBの挑戦は続く。

 

今回のモンゴル訪問でドルジンツェレン氏の妻・ハルタ氏と再会した熊野氏。「夫は熊野さんのことを弟のように慕っていました」とハルタ氏。

 

1838年に建立されたガンダン寺。宗教大学が併設され、モンゴルにおけるチベット仏教の中心的な寺院となっている。

 

モンゴルを代表する広場・スフバートル広場で会った現地の高校生。IIEBの学生に限らず、モンゴルには親日家が多い。

 

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