佐野 極(さの・たかし)氏 シミックホールディングス株式会社 専務執行役員 小淵沢アカデミー担当(人財育成センター長)
難しいミッションだった。ヘルスケア業界の改革を旗印に白羽の矢が立ったのが、当時Jリーグのサガン鳥栖の副社長だった佐野極(さのたかし)氏だった。与えられた役目はシミックグループ内で業績の落ち込んでいた赤字会社の立て直し。
そのときのシミック中村和男社長(現 シミックホールディングス株式会社CEO)の印象について佐野氏は言う。「ヘルスケア業界を変えていくんだという覇気があり革命家みたいな人に見えた」と。
多くの規制に縛られている製薬業界。CROという専門事業で業界に一石を投じたシミックホールディングス株式会社の軌跡と挑戦を紐解く。
中村和男 シミックホールディングス株式会社 CEO
「シミックの創業期は、事務所もマンションの一室で、従業員は3人だったと聞いています。CROはまだ日本では認知されておらず、治験を外注に出すなんてとんでもないという時代でした。そんな状況の中でビジネスを進めていくことは、並大抵の努力ではなかったと思います」と佐野氏はいう。
中村CEOは三共株式会社で医薬品開発のリーダーとして活躍し、大きな成果を上げていた人物であった。社内では次期役員への登用が期待されていたが、中村CEOのアメリカの友人たちは、次に何をやるのかを同氏に求めていた。
彼らは中村CEOが会社でやれることは全てやりつくしたと見ており自身もそう感じていたのだ。
当時、アメリカでは医薬品開発はアウトソーシングが当たり前であり、CROのシステムが整っていた。
一方、日本ではCROは認知されておらず、法律も曖昧であった。「アメリカでは医薬品の研究開発はスリムに効率良くできる環境でした。そんな中で、このまま会社にいても自由に仕事ができないという閉塞感を感じていたのだと思います」。
日本の医薬品開発はこのままで良いのか。今日本を変えることができるのは自分しかいないのではないか。1992年、日本初のCRO事業専門のシミックは立ち上がった。中村CEOは安定より変化を、徹底した挑戦を選んだのだ。
「最初は実績もなく明確な法律もなかったので、なかなか仕事はもらえなかったようです」。そこでCROを製薬業界に認知させることから始める。中村のリーダーシップで業界団体を作り、人材育成や品質基準を設けるなど、CRO全体の認知向上を行った。
この活動は実を結び、ついに国が動いた。1997年、CROを前提とした新しいGCP(Good Clinical Practice 医薬品臨床試験実施の基準)が施行されたのだ。中村CEOが新生シミックを立ち上げた5年後のことである。「これをきっかけとして一気に業績は伸び始めました」。まさに、中村CEOの動きが業界の歴史を変え、市場を作り出したのだ。
さらに、2005年には旧薬事法改正に合わせCMO(Contract Manufacturing Organization)(医薬品製造受託機関)事業に進出。その後、CSO(Contract Sales Organization)(医薬品販売業務受託機関)事業にも着手した。
医薬品業界は、今まさに劇的に環境が変化している。グローバル環境での競争激化、ジェネリック医薬品台頭など様々な要因が複雑に絡み合い、製薬企業各社は生き残りをかけてM&Aなどを繰り返している。シミックはこれを大きなチャンスと見ている。社会のニーズやマーケットの変化に合わせて、シミックは進化を続けている。
「学校推薦でメーカーに行くつもりで就活していました。しかし、三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)で調査部にいる先輩に就活について相談したら、私のコミュニケーション能力をかってもらい、会社訪問から三日目には三和銀行から内定をもらっていました」。
工学部から銀行に就職することは当時非常にめずらしく、就職しても配属はシステム部門である。しかし、配属は融資担当の営業。持ち前のコミュニケーション能力を発揮し、人脈はどんどん増えていったという。
銀行では、佐野氏は頭取の秘書を長く務め、トップの隣でバブル経済とその崩壊、そして不良債権問題を経験する。「通常の銀行業務だけでは見えない部分を見ることができました」。語り口を読むに、墓場まで持って行かねばならない案件もありそうだ。
2004年には、金融庁検査を妨害したとして、金融庁から刑事告発される事件が勃発する。
この事件での経験を、佐野氏は「人生の中で一番哀しかった時」と表現する。「職員全体が事情聴取やマスコミの影響で極限状態になっていました。そうすると、仲間だと思っていた人間の中に、組織や他人を売ってしまう人間が出てくるんです。同じ釜の飯を食ってきた仲なのに、当時はそんな姿を見るのが辛く哀しかったですね。
しかし、本来人間はこういうものなのかもしれない。大切なことは極限状態になったときに自分はどの道を選ぶのか。その瞬間瞬間に人間力が試されると捉えられるか否かだと思っています。今では、良い経験をしたと思っています。冷静に物事や人間を見ることができるようになりました」。
銀行を去った佐野氏は、サガン鳥栖の取締役副社長に就任。当時は経営危機であったが、選手が練習している横をランニングで並走しながら球拾いを始めるところからコミュニケーションをとったという。そして、練習終了後も近くの山まで一緒に走ったそうだ。そうやって汗を流しながら話をしているうちに、チームの状況、監督やコーチの様子、フロントへの思いなどがあらかた把握できたという。
経営破綻の危機から同チームを救い、東京に戻ったときに出会ったのがシミックと社長の中村氏であった。異色の経歴であるにも関わらず、シミックにヘッドハンティングされた理由について、佐野氏は「製薬業界には居ない、おもしろそうな奴だったってところじゃないでしょうか」と笑う。
佐野氏が大切にしているのが、人の縁だという。
「社内でも取引先でもプライベートでも、縁を大切にしてきました。SNSがない時代には、手紙を書いていました。今でも年賀状は500枚くらい出しますよ。打算がない縁こそ、自分の財産です」。
様々な局面で刺激を受け、その価値観を共有できる縁と、チャレンジしてきたからこそ得た経験。このふたつの財産が、業界に挑戦し続ける中村氏との縁を繋いだのだ。


山梨県北杜市小淵沢町所在の小淵沢アカデミー

シミックホールディングス 本社
佐野極(さの・たかし)……シミックホールディングス株式会社 専務執行役員 ※小淵沢アカデミー担当(人財育成センター長)。1957年東京都生まれ。1980年京都大学工学部卒業後、三和銀行(現三菱東京UFJ銀行)入行。 2005年サガン鳥栖に入社。2008年よりシミックホールディングス株式会社に入社し、現在に至る。
※「小淵沢アカデミー」は山梨県北杜市小淵沢町に所在するCMICグループの人財育成の聖地であり、GEグループのクロトンビルの様な存在です。議論の原点は常に「CMIC’s CREED」がベース。日常から離れた環境で、Refrection(内省と自己開示)、Team Building(チームビルディング)、Creative(独創性)を軸に、徹底的・本質的な議論を行います。

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