私はこどもの読書教育に携わっている。そのために、こども向けの本を読むのは仕事でもあるのだが、その中でたくさんの印象深い本に出合い、多大な影響を受けてきたと思う。

まず、大人が子どもの本を読むことについて少し説明する。

大人は大人向けの本を読むのが普通で、大人がこどもの本を読むとしたら、こどもに読み聞かせをしてあげる時か、学校の宿題で読書感想文を書かなければないが、こどもの手には負えずに親が駆り出されたとき、くらいが連想されるだろう。

電車の中で、真剣な顔でこども向けの大型本を読んでいるビジネスマンも、なかなか見かけないだろう。
しかし、イギリスの児童文化の研究者であるピーター・ホリンデイルという人は以下のように言っている。

どの大人の中にも、その人のこども時代の記憶や感触が感覚が住み続けている。それをchildness(子ども性)と名付けると、childnessは普段の社会生活の中では抑圧されている。

誰もビジネスシーンでこどもっぽい振る舞いをしようとしないし、こども時代など無かったかのように、大人だけの話題に集中するのが普通の姿だろう。

けれども何かのきっかけで、こども向けに書かれた本に読者として向き合うと、忘れていた感覚がよみがえり、自分が小さかった頃の出来事を急に思い出したりする。

ホリンデイルはそれを指して「こどもの本は、大人(の自分)とこども(だった自分)の出会う場所である」と言うのである(『子どもと大人が出会う場所―本のなかの「子ども性」を探る』 ホリンデイル,ピーター【著】〈Hollindale,Peter〉/猪熊 葉子【監訳】 柏書房 2002/09刊行 )。

私自身もそうやって、こどもだった自分と再び出会いながらたくさんの児童書を読んできた。

中でも何か1冊をと言われるならば、『やぎと少年』(アイザック・B・シンガー作 M・センダック絵 工藤幸雄訳 岩波書店1979年刊行)に影響を受けたと思う。

やぎと少年 (1979年) (岩波の愛蔵版)

やぎと少年

画像引用:Amazon

この作品は、1904年にポーランドのワルシャワ近郊のユダヤ人共同体に生まれて、その中で少年時代を過ごした作者が、1935年にナチスから逃れてアメリカに渡り、失われた故国の共同体を生きいきと思い起こしてつづった、こども向けのお話集である。

原作が書かれた言葉はポーランドをはじめ東欧のユダヤ人共同体で話されていた「イディシュ語」であった。

挿絵を描いたのは、同じくポーランドのユダヤ人共同体からアメリカに渡ってきて、作者シンガーと共同体の思い出を共有する絵本作家モーリス・センダック(「かいじゅうたちのいるところ」などが有名)である。

短いお話が7つ入っている。村のおばかさんたちのばかげた話、家畜のやぎとの心休まる話、生きているのに自分は死んだと思い込んだ男の話、などなど。

どの話にも、お互い同士の関係が密な共同体で笑ったり怒ったりしながら、伝統行事や神への信仰そのものを疑うこともなく暮らしている、今から見れば懐かしいような人々の姿が描かれている。

作者はもちろん、戦火に奪われた近しい人々を懐かしんで書いたのだが、読者としての私もここに書かれた人々に非常な懐かしさを覚えるのはなぜだろう。

などと思いつつ幾度も読んで、私はだんだん、この失われた共同体の人々の考え方に影響されてきてしまったようなのである。

ばかげたことでも大真面目、だまされやすく、困ったときには神頼み、悪いことは悪魔のせい、でも本当はみんな常識を知ってはいる。単純さを愛し、その時その時を力いっぱい生きている。

実は、そういった姿は、誰でもがこどものころに見た身近な年寄りたちに似てはいないだろうか。

誰にでもきっとそう思わせる筆力が、アイザック・B・シンガーをノーベル文学賞受賞(1978年)に導いた。私はこの作家を通して、ポーランドにあったユダヤ人共同体とその崩壊とを知った。

シンガーは村の人々を書き残すことで文学者として大活躍をしのだが、私は、現代文学とはいつでも「共同体の喪失」をテーマに秘めているのではないかと思っている。

恋愛小説でも未来小説でも、そこに人間が登場する限り、その人間たちの振る舞いには共同体が関わらざるを得ない。戦争の世紀である20世紀は私たちにシンガーという作家を与えてくれた。

そういったことを『やぎと少年』を読みながら幾度も反芻する。私はこの本から、少し偏屈で、全体として単純な私自身、というものをもらったように思うのである。

◎著者プロフィール

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くろき ひでこ
東京都出身。早稲田大学社会科学部卒業後、書籍編集者を経て1997年よりスペインの読書教育メソッド「読書へのアニマシオン」紹介普及活動を始める。2023年4月、小児科医の夫と共に東京都港区に「こどもとおとなのクリニック パウルーム」を開院。待合室には約3000冊の絵本・児童書を揃え、読書セラピー等の独自の取り組みも行う。公認心理師 /臨床発達心理士 / 保育士 / 公益財団法人松山バレエ団理事 / 読書教育アニマシオン黒木秀子事務所代表

◎クリニック概要
医療法人社団嗣業の会
こどもとおとなのクリニック「パウルーム」
〒107-0061東京都港区北青山2-13-4青山MYビル6階
03-6804-1892