オビ コラム

イマドキのビジネスはだいたいそんな感じだ!その17

賢いリーダー、志村けんに見習いたい〝バカ殿マネジメント〟

◆文:佐藤さとる(本誌副編集長)

 

01_BusinessColumn17  新国立競技場の建設を巡って世間が右往左往している。「あちゃ〜」と思った安藤忠雄さんが、ようやく会見を開いて「なんであんなにかかるのか、私もようわからん」と煙に巻いた。

あちゃ〜…そう来たか。デザインまで責任を負うのが審査委員会の仕事だし、コンペで通っても実現しない未完の女王、ザハ案を威信にかけて通したかったのも分かる。ただ、もっと予算のところまで気が回らなかったのかとも思う。

 

そもそも北京の時のメインスタジアムの建設費が500億円で、次のロンドンが900億円。「じゃ今回はその差400億乗っけて1300億で」っていうイージーさが見え隠れするのはワタシだけではあるまい。

国威発揚なのかは分からないが、そもそもが大盤振る舞い過ぎる。もともとコンパクトとエコを標榜して開催が決まったはずだから、むしろ前回を下回る予算で建てるってのが、スジってもんだろ、おい! ! あぁいかん! どうも新国立競技場の件になるとすっかり口調も長屋の八っつぁんになってしまう。

メディアは早速責任者探しを始めた。で、やがて澎湃と沸き上がってくるのがリーダーシップ論だ。つまりリーダーシップを執る人間がいないからこうなってしまうというものだ。いつものパターンである。

 

ワタシはそもそもリーダーシップは日本社会にはなじまないと思っている。もともと日本の大仕事や大組織は、責任を取れない、取らない仕組みになっているからだ。新国立競技場の件もそうだし、東芝の〝不適切〟会計処理もそう。東芝会長は「不適切な処理を指示した覚えはない」と言っている。

そりゃそうだ。組織の不正や放漫会計は、「そうしろっ」と具体的な指示があって起こるわけではない。それぞれが上や周りの意向を忖度するから起こる。

「上がどうもそう思っているらしい」「奥の院ではこんな意向らしい」みたいな。上司のメンツを配慮し恥をかかせないように手を打つのが、日本的「デキル人間」だからだ。

もっと言えばもしアメリカ型リーダーシップを範とするなら、いま巷で言われているリーダーシップはそれではない。

 

そもそもリーダーシップ論が盛んなのはアメリカくらいで、たとえばドイツのビジネス界ではリーダーシップはむしろ害だとして、マネジメントの場では評価されない。ドイツはナチスの台頭で悲惨な思いをした経験から、リーダーシップを独裁者を生み出す温床とみているからだ。だがそれでもドイツは欧州のリーダー格となった。

 

日本が問題なのは、リーダーシップが中途半端なことだ。リーダーと目される人が、責任を口にせずテキトーなことを権力を背景にふわっと語ってしまうのだ。

理想とするのはリーダーシップ不要の世界だ。だが日本のいまは取り敢えず必要とされる、というのがワタシの見解だ。ではその取り敢えずの理想とは誰か。

 

それはお笑いの大御所、志村けん演じるところの『バカ殿』である。年末やお盆などに時々放映されるコメディだ。

「えっ!」ですよね。「何言ってんだこいつ」ですよね? でもよく聞いてほしい。きっと得心すると思う。

 

志村けん演じるバカ殿は、いつも破天荒ないたずらをやらかしては部下や周囲に迷惑をかけている。部下は「困ったものだ」と言いながらそれでも付いていく。いたずらをするたびに部下は殿をたしなめるが、本人はその時は反省するものの、またしばらくするといたずらの虫が騒ぎ出して、新たな企みを実行する。

部下はそのたびに知恵を働かせ、殿のいたずらを阻止するアイデアを捻り出す。そして部下はいたずらをされるたびに自覚を新たにする。「殿があのような方だから、自分たちがしっかりしないといけない」と。

そこにはやんちゃな子どもを見守る母のような慈愛と、藩を殿に代わって守りぬく知恵と決意が宿っていく。人として鍛えられていく。

 

で、もしそれをバカ殿自身が意図していたら…。勝手に人が育ち、本人は好き放題のことをする。これほどすごいマネジメント方法はないだろう。志村けんのバカ殿が視聴率を稼ぎ続けているのは、実は日本人の究極の理想のリーダー像をどこかに重ねあわせているからかもしれない。

イマドキのビジネスはだいたいそんな感じだ。

 

オビ コラム

2015年8月号の記事より
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