岡部恒夫社長は、言葉を選びながらこう語る。そこには当然、被災地に対する配慮の気持ちがあり、慎重に粛々と受注をこなしていきたい思いもあるだろう。なにしろ他社がうらやむ更新需要である。
「2004年に、円筒研削盤メーカーである株式会社宮本製作所の技術を継承し、宮内工場を操業開始しました。弊社がずっと手がけてきたのは小型の円筒研削盤ですが、宮本製作所のものはもっと大型なんです。この大型の円筒研削盤をタイに納めていました。弊社の取り扱う製品ラインナップに拡がりができたことも大きいですが、今回、図らずもその大型円筒研削盤が被災し、更新のための新しい大量受注をいただくことになり、気を引き締めているところです」
受注があったのは、OA機器用ゴムローラーを加工するための研削盤。もともとの納入実績があり、高い信頼を得ていたからこそ、同社の機械が再び求められることになったのである。
「被災された企業様はたいへんな苦労をされています。そこは十分、気をつけなければなりませんが、我々の仕事は、一日も早いユーザー様の復旧に貢献することだと思っています。今年2月に受注をいただき、7月、9月、10月と3回に分けて納品することになります。10月までは、まったく息の抜けない根を詰めた仕事が続きます」
これを「特需」のひと言で片付けるわけにはいかない。現に岡部社長は、この現実を厳粛に受け止めているようで、むしろこの話題を避けたがっているようにすら感じられるのだ。ともあれ今回の受注の背景には、業績が悪化し、立ち行かなくなっていた宮本製作所の技術を継承した事実の重みが横たわっている。それが可能だったのも、丸栄機械製作所が80年の長い歴史を生き延びてきたその技術力と体力があってのことだ。
戦前から続く日本のモノづくりの力が、いま、こうした形で東南アジアに生かされている。そのことだけは間違いない。
やがて自家製の六尺旋盤の製造を開始するも、まもなく長岡空襲によって工場が消失。戦後は疎開先で新工場を建設し、昭和39年、東京オリンピックの年にその後の会社の基盤となる円筒研削盤の販売を開始する。時あたかも、高度成長の真っ只中である。
「円筒研削盤を始めた頃もまだ初代社長は健在で、f父が2代目になるのはここから7年後のことです。高度成長の良き時代のことは、もちろん私は話の上でしか知りません。しかしこの頃の方向転換が現在までのベースを作っていることは確かです。もちろん、そこからさらに平成のバブル崩壊を経て、時代は大きく変わってしまった。私などは良かった時代がないと言いたいくらいです(笑い)。現在はむしろ課題が山積していまして、まず、45名いる社員の平均年齢が50歳を超えてしまいましたから、ここのバランスをもう少し取りたい。管理、総務、技術など、会社全体の仕組みについて、見直す時期にきているのかもしれません」
2011年度の総売り上げは5億5千万。この数字も岡部社長は「まだまだ」と考えている。
「もっと高い数字を安定的に出していかないと、これからの時代を生き延びるには苦しいと感じています。私の父でもある会長にはまだ現役でがんばってもらっていて、特に新製品開発の際に会長の意見はなくてはならないものです。会長は一から研削盤を学んで今日まで会社を発展させて来た人ですから、経験も豊富だし、言葉に説得力があります。しかし、会長も75歳、私が45歳。そろそろ私自身がもっと主導していかなければいけない時期に来ていると思っています」
会長には会社のトップらしいカリスマ性があり、自分にはそれがない。岡部社長はそう考えているようだ。しかし、時代が変わればリーダーの行動のあり方も変わっていいはずだ。
「会長が自らグイグイ人を引っ張っていくタイプだとすれば、私は適材適所で人をうまく生かす、能力を引き出すタイプかもしれません。丸栄機械製作所に来る前は京セラにいまして、現場の生産性をいかに向上させていくか、という仕事をしていました。その経験をもっと生かして、現場の環境づくりにも自分なりのやり方で取り組んで行きたいと思っています」

強みは小回りの利く機動力と提案力
岡部恒夫(おかべ・つねお)
1967年新潟県長岡市生まれ。武蔵工業大学(現東京都市大学)経営工学科では修士課程まで進む。卒業後、京セラに7年間勤務し。製造現場の生産性改善などの仕事を手がける。1998年、32歳で丸栄機械製作所に入り、2007年に第3代社長に就任、現在に至る。
株式会社丸栄機械製作所
【本社・工場】
〒940─2022 新潟県長岡市鉄工町2─3─54
TEL 0258(27)2774
【宮内工場】
〒940─1163 新潟県長岡市平島1─96
TEL 0258(22)1480