筒井潔オビ1

世界平和研究所参与 小島弘氏・特別インタビュー【第3回】『そこにある歴史 60年安保』

◆インタビュアー:筒井潔 /文:加藤俊

オビ インタビュー

小島弘 世界平和研究所 (3)

小島弘氏 公益財団法人世界平和研究所参与

 

1960年6月15日この日、580万人の市民がストを行い、33万人のデモ隊が国会を取り巻いた。戦後最大の反政府運動「安保闘争」は、遂に岸信介政権を退陣させるに至る。

この渦中に身を投じていた一人の男がいる。全学連で副委員長や共闘部長を歴任した、小島弘氏である。60年後の現在、小島氏の肩書は「公益財団法人世界平和研究所 参与」。この世界平和研究所とは、中曽根康弘元首相が会長を務める政策研究提言機関である。

かつて政府と戦った男が、現在では元首相の懐刀になっているという事実。そこには日本という国家の懐の深さを感じさせる面白い物語があった。本稿は連載を通して小島氏の激動の人生を辿る。

 

警察による逮捕

筒井:砂川闘争の後に起こったことについてお聞きしていきたいです。砂川闘争以後森田実さんや小島さん達主流派と砂川闘争に行かなかった書記局の人達との間で権力闘争が起きていますね。

 

小島弘 世界平和研究所 (1)

小島:それは砂川が大成功したものだから現場に行かなかった書記局の連中からやっかまれたんです。現地の人間はそれこそ英雄扱いされました。書記局としては面白くなかったのだと思います。

高野秀夫君(早稲田大学・56年第9大会全学連書記長)や牧衷君(東京大学・56年第9大会全学連副委員長)達が、「あいつらは砂川に行っていい気になっている」と言い始めて、闘争から帰ってきたらぼく達の席は無くなっていたんです。

 

ただその翌年57年6月の全学年第10回大会で巻き返しました。むしろ高野君達がポストを失うことになり、代わって委員長に選出されたのが香山健一君(東京大学)、副委員長にぼくと桜田健介君(立命館大学)、書記長に小野寺正臣君(東京大学)となりました。

 

筒井:その頃の小島さんはどういったことをしていらしたのですか?

 

小島:強烈に憶えているのは、警察に逮捕された(パクられた)ことです。あれは58年の夏だったか、勤評闘争*が盛んになった時期でした。ぼくもBS フジ元社長の白川文造君(東京大学) 達と一緒に高知に行ったりしていました。高知大学や高知女子大学などでオルグをしていたんです。そんな形で夏が過ぎて東京に帰ってきた9月15日のことでした。日教組と勤評反対の統一行動を行ったんです。

 

その日のデモの責任者がぼくでした。警察との交渉はぼくがやっていて、デモの届出の責任者もぼくでした。それで昼のデモは滞り無く終わったのですが、その夜、今度は夜間部の学生が文部省(現文部科学省)の前でデモをやると連絡を受けて、また現地に行ったんです。

そのときデモ隊の学生達に挨拶の演説をしたんですが、これが無届けデモでした。それで現行犯逮捕。恥ずかしいのは、逮捕されたところが新橋駅のホームになったことです。ぼくは足が速かったから逮捕されるとみるや一目散に逃げだしました。

それで警察を撒いたつもりで新橋駅のホームに立っていたのですが、いきなり後ろから手を掴まれて押さえ込まれてしまった。夜中人混みが多いなかでの捕り物です。多くの人がスリか何かの逮捕劇と勘違いしたでしょう。「やめてくれ。逃げやしないよ!」と叫んでも時既に遅し。手錠をかけられてそのまま警視庁に連れて行かれました。

でも警視庁では当時公安第一課の課長で後に警察庁長官になる三井脩さんがいまして、「おお、小島君ご苦労さん!お腹が減っているだろう」と丼物を出してくれました。この時から三井さんとはお付き合いをさせて頂くようになりました。結局留置場は5、6日で出ることができました。

※勤評闘争:1957年から58年にかけて教職員組合を中心に全国的に激しく展開された反対闘争。公選制から任命制に変わった教育委員会制度により、教員に対する勤務評定が強行されたことに対して、教職員の団結を破壊し教育の権力統制を意図するものとして繰り広げられた反対闘争。

 

 

堕落した幹部と突き上げられて

筒井:その時期にブント(共産主義者同盟)が結成されていますね。

 

小島:あれは島成郎君(東京大学・書記長)や清水丈夫君(東京大学・革共同議長)などを中心に若い連中がやったものなんです。どちらかというとぼく達を「ダラ幹」(堕落した幹部)と非難する向きのある連中の集まりでした。だからぼくは名簿に形だけ名前が載っているだけでした。

 

筒井:何故「ダラ幹」と非難されるようになったのですか?

 

小島:ぼくは当時学生といっても8年も在学していました。森田も東大を出た後中央労働学院という学校に籍を置いていました。要は「年寄りはけしからん」という風潮が生まれたんです。

でもぼく達にしてみたら運動を行うには仕方なかった。清水幾太郎先生や田中清玄など色々な文化人や労働組合、社会党、それから警察との関係も全部ぼく達が一手に担っていました。デモをするにしたって警察と交渉して届け出を出さなければできなかった。当然その過程で妥協を迫られることもありました。それが「警察の手先」と、純粋な若い学生からすると非難しやすかったんだと思います。

そうしたことがあって、森田やぼく達は何のために運動をしているのかと思うようになって、次第に運動に興味を無くしていきました。

 

 

国際的なフィクサー田中清玄との出会い

筒井:今、田中清玄氏の名前がでました。彼は全学連の資金カンパをしたとも言われています。世間からは右翼の黒幕と見られ、昭和天皇に国際インテリジェンスを届けたことでも知られるこの田中清玄氏と全学連との関わりはどのような形でスタートしたのでしょうか。

 

小島:出会いは、文芸春秋の60年2月号に掲載された田中清玄の記事がきっかけです。「学生は労働者の気持ちを理解しなければいけない」と言いつつも、肯定的な見方をしてくれていました。その記事を読んだ東原吉伸君(早稲田大学・全学連財政部長)が感動して、田中清玄がどんな人かも知らずに電話したんです。彼を知っている人はみんな「殺されてしまうぞ」なんて言っていたんですが、ぼくは会いたかった。

彼は国際的なフィクサーで右翼の親玉と言われていましたが、戦前は共産党のトップだった人です。それこそ非合法で武装共産党時代だった頃のことを聞いてみたかった。それで東原君と会おうと決めて、60年の1月18日に上野のすき焼き屋で会食したんです。

 

筒井:実際にお会いしてどんな印象でしたか?

 

小島:話が頗る面白い人でした。例えば、戦後延安から凱旋した野坂参三は長らく共産党の英雄でしたけど、1992年100歳の時にかつて同志を売った咎で党から除名されましたよね。でもその30年以上前から、田中清玄は「野坂は酷い野郎だ。スターリン粛清時代に同志を売って自分だけ中国に逃げたような奴だ」と言っていたんです。当時は半信半疑でした。でも、この人の言うことは面白いなと思いました。人間的に魅力のある人でしたし。それに食事の最後には20万円ももらいました。

 

筒井:田中清玄氏でしか知り得ない情報ですね。

 

小島:田中清玄に関しては面白い話がありますよ。清水幾太郎先生の研究会に参加したときのことです。清水先生と田中清玄が会話している姿を見て、東京大学教授で経済学者の玉野井芳郎さんが「小島君、清水幾太郎と田中清玄には共通点があるんだけど何だかわかるか?」と聞いてきたんです。

聞けば、清水先生は山岡鉄舟を友人に持つ江戸幕府高官の孫で、明治維新で落ちぶれた家の出です。一方の田中清玄も、会津藩家老という家柄。清玄のお祖父さんは薩長に追われて五稜郭まで行った江戸幕府の幕臣です。要は、長州の玉野井さんには二人とも根っから新政府に反対に見えたのです。

二人が学生を援助して岸首相を退陣に追い込んだのも、岸さんが長州だからこそ。長州憎しという武士の雪辱を晴らすがためなのだとでも言いたげな感じでした。

 

 

■60年安保闘争

小島弘 世界平和研究所 (2)

筒井:60年安保についてお聞きしたいです。新条約調印までの流れは、58年に岸内閣による安保条約の改定交渉開始に始まり、60年1月に岸以下全権団が訪米、大統領ドワイト・D・アイゼンハワーと会談して、1月19日に新条約調印となっています。60年安保闘争はここに抗う形で展開されています。

まず59年11月27日に2万人のデモ隊が国会に突入しています。翌年60年1月16日には渡米する岸首相を阻止しようと、全学連が成田空港に籠城。それでも5月20日には日米新安保条約が強行採決され、これに対する抗議として26日に17万人による国会包囲デモが起こります。

6月10日にはハガチー大統領秘書官来日に抗議する羽田闘争、6月15日には全国で580万人の安保反対統一行動が行われ、東京では33万人のデモ隊が国会を取り巻き、全学連が国会に突入します。この時の警官隊との衝突の中で樺美智子さん(東京大学学生)が亡くなるという事件が起きています。6月19日には自然承認を阻止しようとして再度国会に突入となっています。

 

小島:59年11月27日のデモ隊初の国会侵入事件の責任者はぼくでした。当時全体の指揮はぼくがやっていた。共闘部長という役職でしたから。

 

筒井:国会に侵入するという非常に衝撃的な行動ですが、これは意図したことだったのですか?

 

小島:途中まではね。あのときは国会の正門前にみんなで集まったんです。ここまでは計画通りだった。ところがこの正門は今みたいに堅牢な門ではありません。ちょっと押したら開いてしまったんです。塀もそんなに高くなかった。ちょっと手をかければ乗り越えられた造りでした。簡単に入れてしまった以上進むしかない。それで国会の中庭で集会をやりました。「我々は国会に突入した!有史以来である」そういった勇ましい演説をしました。

 

筒井:警察は手を出しませんでしたね。

 

小島:当時は機動隊が強くなかった。それにその時点で、おいそれと手を出せない規模にデモが膨らんでいたんです。2万人ですからね。デモというのは1万人を超えた時点で簡単に手を出すことはできなくなる。砂川闘争のときは3,000人の参加者でした。このぐらいだとまだ抑え込もうと思えば抑え込めるんですが。

 

筒井:なるほど。でも警察以外にも暴力団などがデモ阻止に動いていますよね。岸政権は、警察と右翼の支援団体だけではデモ隊を抑えられないと判断し、児玉誉士夫氏を頼ったと言われています。当時の松葉会会長・藤田卯一郎氏、錦政会(現稲川会)会長・稲川角二氏、住吉会会長・磧上義光氏などにも応援を要請したと言われていますが、こういった影響はありましたか?

 

小島:それはありましたよ。でもね、この頃にはデモの規模が大きくなりすぎていました。一般市民が参加するほどでしたから。例えば、ぼく達が機動隊のトラックを押して倒そうとしていると、タクシーの運ちゃんが「おい学生さん、そんなんじゃダメだ。そっちのエアーを抜け!」と倒し方を教えてくれるんです。それで倒れてガソリンが漏れだしたところに今度は「そこに火を付けてみろ」なんてね。車が瞬く間に燃え上がっていく様を一般の方達と一緒になって眺めたりしていました。

他にも、キャバレーのおねえちゃんが差し入れをもってきれくれたり、またその頃にはデモをすると屋台が出るようにもなっていました。

 

日本全体が「二度と戦争は行いたくない。アメリカの手先となっている岸政権を打倒しなければ」という意識のもと、デモやストに参加した時期なんです。もはや誰にも止められなかった。この段階ではぼく達もコントロールなんかできません。なにせ指揮する学生の多くが逮捕されていました。羽田闘争のときには当時委員長の唐牛健太郎君(北海道大学)や篠原浩一郎君(九州大学・社会主義学生同盟委員長)もパクられました。

そういったこともあり、半ば指揮系統を失ったまま突入した6月15日の時には暴力団と右翼団体がデモ隊を襲撃して多くの負傷者が出てしまいました。

 

 

二度と戦争はしたくないという思い

筒井:そこまで運動が膨れ上がったのは、一般大衆の「戦争はこりごりだ」という無意識をうまく意識化できたことが大きいように思うのですが、これは森田さんや唐牛さんなどが計算していたことなのですか?

 

小島:違います。学生にそんなことまではできなかった。やはり岸さんという存在が大きかった。悪役としてこれ以上ない存在でした。そういった意味では60年安保最大の功労者は岸さんと思っています。多くの人にとって、岸さんや米軍という存在はそれだけ深く「戦争」と結びついていたんです。

 

筒井:さながら一般大衆の恐怖心を投影したイコンと化していたというわけですね。なるほど。またそこに対するものとして、学生という「純粋無垢な存在」が登場して旗を振ったことも良かったんでしょうね。この構図が勧善懲悪モノのドラマのようにきれいに嵌った。それで多くの一般大衆が参加するようになった。そう見立てると、岸首相が退陣したら反政府運動が瞬く間に雲散霧消してしまったことも理解できますね。

 

 

樺美智子さんの死

筒井:多くの負傷者を出したという戦後最大の反政府運動、6月15日のデモについてお聞きしたいのですが、国会周辺を埋めたデモ参加者は33万人とも言われています。同時に全国で580万人の方がストを展開したとも。このとき小島さんは?

 

小島:ぼく自身は現場に行っていないんです。このときは全学連の代表幹事として総評や労働組合、社会党の連中と参議院別館の5階で会議をしていました。

デモ自体は国会前に多くの人が集まりました。もはや統率はできない状況です。右翼や暴力団の奇襲、それから国会議事堂正門前での機動隊との激しい衝突、この惨劇のなかでデモに参加していた東大の樺美智子さんが亡くなってしまった。これは本当にショッキングなことでした。

この件に関しては後日談があります。ぼく達全学連や社会党、総評、共産党などがみんな集まる安保国民会議という会合がありました。彼女が亡くなった時もこの会議が開かれたのです。そこで「樺さんが殺された件について政府に抗議に行くぞ」という提案があがったのですが、共産党の連中は「あんなトルキストが殺されたぐらいで抗議することはない」と発言したんです。

これには全員が怒った。特に、後日右翼青年に刺殺されてしまう社会党の浅沼稲次郎さんは「みんなで安保反対という目的のもと協力している中で学生が殺されたというのに何事か!」と烈火の如く怒っていました。

ぼく達は六全協を機に、共産党の非人道的な実態を知って離れたわけです。共産党の嫌な面を色々と知ってしまった。樺さんの件はその中でも最たる話として憶えているんです。

 

 

信念の人赤城宗徳

筒井:樺美智子さんの死は圧死と言われています。そのほかにも多くの負傷者がでたとのことです。一方政権側の政治家も多くが議員会館から逃げ出し、追い込まれた岸首相が自衛隊に治安出動を要請していますね。

 

小島:そうです。でも当時防衛庁長官の赤城宗徳さんが反対したおかげで自衛隊の治安出動は頓挫しました。このことについて、後年、宇都宮徳馬議員から言われたことがあります。「おい、小島君。今日は君たちの命の恩人を紹介してやる。一緒に飯を食べよう」と。それが赤城さんでした。

赤城さんが岸さんからの出動要請に対して、「我々自衛隊は外国からの侵略にはいくらでも戦う。しかし同じ日本国民のデモ隊に銃口を向けるのは我々の仕事ではない」ときっぱり拒否したんです。だから今日もぼく達は生きているし、今の日本があるとも言える。そうでなければ天安門事件と同じ大惨事になっていたと思います。

 

筒井:凄い方ですよね。政権の根幹をなす閣僚の立場で首相に対してきっぱりとNOと言ったんですものね。

 

小島:そうです。昨今の政治家にはない信念をもった人でした。

 

 

■岸内閣総辞職

筒井:衝突事件翌日の16日には、アイゼンハウアー大統領の訪日招待延期が発表されます。18日は日比谷で樺美智子さんを悼む全学連総決起大会が開催。午後には東京大学で合同慰霊祭。翌19日には再度デモ隊が国会を取り巻く中、強制採決された新条約が参議院の議決がないまま、自然成立。岸内閣は目的を果たし、混乱を収拾するため責任をとる形で、新安保条約の批准書交換の日である6月23日に総辞職を表明しました。

 

小島:ぼく達はもう積極的ではありませんでした。19日に再突入すると決まりそうなときも止めたんです。でも若い連中は元気がいいから聞かなかった。前述したとおり、その前から運動に失望し始めていました。そして何よりも仲間が一人亡くなってしまった。責任はリーダーであるぼく達にあることは自明でした。

 

筒井:なるほど。小島さんだけでなく多くの一般大衆も盛り上がりという点では同じだったのでしょうね。岸内閣が総辞職を発表するやデモは終息してしまった。7月14日には池田勇人さんが党総裁に選出。19日に池田政権が発足しています。

 

小島:そうです。60年安保が終わるや日本全体が急速に変わった。「国民所得倍増計画」のキャッチフレーズが踊ったように高度経済成長を誰もが実感できた。東京オリンピックに大阪万博と、年を追うごとに暮らしが豊かになっていきました。そうすると、マルクス主義が社会科学全体の中の一部だということに嫌でも気付かされるんです。

また清水幾太郎先生の影響も大きかった。先生が「小島君、マルクスの窓から世の中を見るだけでは間違うぞ。もっと広い視座に立って世の中を見渡しなさい」と言って、色々な書物を読ませて頂いたり講義をしてくれたんです。経営学や社会学、ケインズなどを学びました。そうすると、スターリンなどの矛盾やおかしな点が見えてくるようになったんです。それで完全に決別しました。大学の卒業も同じような時期でしたし。(次号に続く・社会人編スタート)

 

 

オビ インタビュー

世界平和研究所

◉プロフィール/小島弘(こじま・ひろし)氏…1932年生。明治大学卒。57年全学連第10回大会より全学連副委員長。60年安保闘争当時は、全学連中央執行委員及び書記局共闘部長。その後、新自由クラブ事務局長を経て、現在は世界平和研究所参与。

◉インタビュアー/筒井潔(つつい・きよし)…慶應義塾大学理工学部電気工学科博士課程修了。合同会社創光技術事務所所長。株式会社海野世界戦略研究所代表取締役会長。株式会社ダイテック取締役副社長。

 

2015年8月号の記事より
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