株式会社ダイテック代表取締役 中内豊(なかうち・ゆたか)氏…慶應義塾大学商学部卒。総合商社勤務後、宿泊観光産業に従事。小泉政権でのダイエーグループの整理後、ダイテックを設立、代表取締役に就任。中国政府関係者との関係を深め対中国情報提供、中国進出ビジネスコンサルティング及び中国企業からのビジネスコンサルティングを行う。
塩入:ダイエーがスーパーという業態に進化する過程を教えて頂けないでしょうか。 中内:ダイエーも、はじめからスーパーをやろうと思ってできた会社ではありません。薬剤師だった祖父中内秀雄が、曽祖父栄の名に因んで「サカエ薬局」という薬局を始めた。ちょうど終戦の頃ですが、長男である中内㓛が戦争で南方に行っていて、いなかった。戦死したものと諦めて、次男である私の父中内博が継いでいたのです。 フェナセチンという風邪薬をドラム缶で煮ると、上澄みと沈殿物ができる。その沈殿物を乾かすとサッカリンのように甘い甘味料になるのです。祖父は薬剤師なので、そのことを知っていた。そういうものを薬包紙に包んで闇市で売りだしたのを手始めに、色々と薬品の安売りをしていました。 薬品の安売りをしていて、朝10時に店を開けるともう人が並んでいる。やっと一息ついたなと思うと、もう夕方の4時でお昼ごはんも食べられない。その忙しい中で、昔の市場によく見られたように、ゴム紐にカゴをぶら下げてお釣りを渡していました。そんな状態なので、売り上げがいくらなのかはどんぶり勘定。一斗缶に札束を詰め込んで、足で踏んで締めてという状態でした。疲れて数える気力がないので、銀行員を呼んできて、通帳を渡して数えてもらって、「いくらでした」と教えてもらっていた。 すると、そんな風に繁盛しているその行列を見てこれは何を売っているのだと尋ねる人がでてくる。薬を売っていると答えると、薬は口に入れるものだから、同じ口に入れるものならこれを横に置いといたら売れるのではといって、チキンラーメンを置いていったのがあの日清食品の安藤百福さんでしたと父から聞きました。 さらに、大阪で『セルフ』というブランドの肌着を卸している大西衣料さんが、薬は病人が使うもので、病人は寝ていて汗をかいたりするから肌着を替える、ならば肌着を一緒に売ったら売れるんじゃないか、といって肌着を置いていった。そうやって取り扱う商品が増えていったそうです。 そうすると、薬のことは自分たちで分かりますが、チキンラーメンや肌着のことはお客さんに聞かれても答えられない問題が起きるようになりました。薬に関しては「これはアリナミンです」などと答えられますが、じゃあこの隣のソバみたいなのは何だと聞かれても、よくわからない。「なんか3分お湯に入れておくとソバみたいになるみたいですよ」とかその程度の説明しかできないのです。肌着にしても、どんな生地かなどと質問されても分からない。当然、お客さんに怒られるようなこともありました。もともと売り上げも分からないほど忙しかったのが、一息ついたら4時どころではない、より大変な状況になっていった。 その頃、伯父中内㓛が戦争から帰ってきて店を手伝うようになっていたのですが、伯父は映画が好きでした。神戸には新開地という歓楽街があって、そこの映画館で伯父が映画を観ていると、アメリカのドラッグストアが映った。そのドラッグストアでは、紙に値段を書いて色んな売り物に貼ってある。それを見て、チキンラーメンだとかメリヤスの肌着だとか、値段と一緒に書いて貼っておけばいいじゃないかと。お客さんにその分のお金を置いて帰ってもらえばいいじゃないかと閃いた瞬間だったそうです。 さらに、その映画のドラッグストアはセルフサービスで、最後にレジというものがあってそこで支払っていると。じゃあそのレジという機械をというので、映画に映っていた「スエダ」というメーカーのレジを買ってみたのです。ところが買ったはいいものの、使い方がわかりません。使い物にならなかった。 困っているところに、アメリカのNCRというレジの会社が日本法人を作って日本でレジを売り始めた。これを聞きつけた伯父が日本NCRの社員を呼びつけて、レジを買ってやる、その代わりにアメリカのドラッグストアの説明書を持ってこいといって、持ってこさせた。ところがこれが英語で、さらに大変分厚いものでした。伯父も父も英語が分からない。そこで、お前ら頭いいんだから、英語が分かるからNCRで働いているのだろうと言って、訳して持ってこさせたのが、スーパーマーケットのマニュアルでした。 それを基にサカエ薬局から大きく栄えるようにと云う思いを込めてサカエ薬局の販売部門として大栄(ダイエー)と云うスーパーマーケットが誕生したのです。 同時にその頃、渥美俊一さんという流通の大先生がいて、アメリカで勉強されたことを日本に根付かせようとペガサスクラブという勉強会を作った。 こうしたことが相まって、日本でスーパーマーケットやチェーンストアというものが始まっていったのです。このように、ダイエーはもともとスーパーマーケットありきで始まったものではない。ですから会社というものはこういうものだというものではなくて、ダイエーも最後はあまりにも手を広げすぎたと言われますが、走りながら動きながら大きくなっていく中で、必要に応じて色々な仕組みを入れたり会社を買収したりするわけです。 私はよくロケットエンジンに例えるのですが、ダイエーにとって一段目のロケットエンジンはいまお話したように、「薬」だった。二段目のロケットエンジンは、「食肉」でした。(次号に続く)「今の若い子たちはダイエーのことを知らない。やがて人々の記憶からダイエーは消え去ってしまうでしょう。歴史は勝者が紡ぐものですから。面白い企業だったのですけどね」。取材時中内氏の口から出た言葉だけに、筆者にとって印象的だった。それだけに、お話頂いた言葉を丁寧に拾い、記録として残す義務を感じた。
(次号)当時、牛肉は贅沢品でした。伯父をはじめ、うちの家族はこの世でいちばんおいしいものはすき焼きだと思っていますから、一族が集まるとすき焼きか中華と決まっていました。それで、ダイエーでも「日本人にお肉をお腹いっぱい食べさせたい」と。……