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映画『TOKYOてやんでぃ』 神田裕司監督に聞く

映画で葛飾の町興しを!みんなが夢をみられる社会へ、そのための下町エンタメインフラ構想

◆取材・文:加藤俊 /文:渡辺友樹

神田1神田 裕司(かんだ ゆうじ)…1965年葛飾区生まれ、墨田川高校、成城大学出身。映画監督、プロデューサー、コメンテイター、『葛飾エンタメの会』主宰、葛飾観光協会所属フィルムコミッション担当。『ブリスター!』(2000)、『ピストルオペラ』(2001)、『幸福の鐘』(2003)、『下妻物語』(2004)、『タナカヒロシのすべて』(2005)、『オペレッタ狸御殿』(2005)、『姑獲鳥の夏』(2005)、『蟲師』(2007)、『魍魎の匣』(2007)など、企画・プロデュース等多数。

落語家修業は「前座」から始まる。前座から「二つ目」へ、そして寄席でトリを務める「真打ち」へと昇進していくわけだが、師匠に認められない限りは、いつまでも昇進できない。弟弟子たちに次々と追い越されながら、何年経っても二つ目になれない前座を主人公に、寄席の楽屋の一日を描いた映画『TOKYOてやんでぃ』(2013年公開)。ドタバタコメディを笑いながら観ているはずが、終わってみるとほろりと温かい気持ちになっている、そんな映画だ。

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この映画を撮ったのが、東京の下町、葛飾生まれの神田裕司監督。氏は「人間の生き方には多様性があってもいい」と考えている。勝ち負けや数字ばかりが重視される時代、そして東日本大震災。「強い者は弱い者を助けなくちゃいけないと教えられて育った」と語る氏は、多様な価値観や、夢をみることが許される社会を次世代に残すべく、城東4区に娯楽産業のインフラを築こうとしていた!

 

若き映画監督として栄光の
キャリアを重ねるはずが…

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自身の人生を評して、「山あり谷あり」と笑う神田監督。小学校の頃から、美術や音楽に才能を発揮していた。高校時代、意欲的に自主制作の映画を撮り、2年連続で『ぴあフィルムフェスティバル』最年少入選を果たしている。著名な監督の撮影現場に出入りもしていたという。業界では「期待のホープ」と持て囃されていたそうだ。そのまま最年少映画監督として華々しくデビューし、ヒット作を次々と世に送り出すつもりでいた。自信も、手応えもあった……。

 

しかし、人生が180度変わる。父親が倒れ、多額の借金が発覚。母や妹たちを養うために、大学を中退して死に物狂いで働かなければならなくなった。

 

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「とにかく家族を養わなくちゃいけない。そんな仕事に追われる毎日を通して、映画のことはスパッと諦めたつもりでした。でも、酒に酔うと、押し殺した感情が表にでて、映画に対する想いが口をつく。つまんねぇ映画ばっかりを撮ってるんじゃねえ、俺にやらせてみろ!なんて威勢の良い管を巻いていましたから(笑い)」

 

そんな生活が10年続き、30代前半になったころ、運命の歯車が回りだす。当時所属していた商社で映像を扱う部署を立ち上げる機会に恵まれたのだ。これを機に、一度は捨てた夢が、煌々と目の前にちらつくように。気づいたときには、「明日潰れるかもしれない弱小の映像制作会社に転職していました(笑い)」。こうして、氏は映画の世界に引き戻されていく。運命と呼べるものがあるなら、それはこうした「磁力」のようなものなのかも知れない。

 

 

ふたたび映画の世界へ。
しかし…

やりたくてもできなかった10年間を埋めるべく、映画の世界で走り回る日々が始まった。もともと才能溢れる氏である。やがて、伊藤英明初主演作「ブリスター」(神田監督はアシスタントプロデューサーとしてだが中心的に関わる)という低予算で制作した映画がヒット。「弱小制作会社の起こした奇跡」と呼ばれる成績をあげたことで、氏は再び注目されることに。

監督としてではなく、〝プロデューサー〟という形だったが、映画に携われる喜びは「楽しくて仕方がない」毎日だった。多数のオファーがひっきりなしに舞い込んだ。数々の有名映画を送り出した。

 

そうして、20年近い年月が過ぎた。気づけば、カンヌ、ヴェネチア、ベルリンの世界3大映画祭を全て経験。カンヌ、ヴェネチアでは正式にレッドカーペットを歩き、ベルリンではNETPACアジア最高賞を受賞。また、巨匠鈴木清順監督の業務窓口を10年も担当出来た。

 

ところが、いつしかセオリーが通じなくなってきた。人知れず、時代が変わってしまったのだ。

 

 

「映画を作っても、業界の構造的に、ビジネスとして利益を生み出すことが難しくなりました。気づけば、多くの仲間が去っていて……。いろんなことがあって、自分も、もういいかなって思うようになりました。多くの方に評価いただいた作品にも携われましたし、映画の世界を離れてもいいかなと思うようになったんです」

 

「映画冬の時代」。なかなかヒットが生まれなくなってしまった。業界の在り方はすっかり変わってしまったのだ。

 

 

『TOKYOてやんでぃ』

ただ、どうせ辞めるなら、「〝監督として〟一本撮ってからにしよう」。内外からそんな声が起こり、動き出したプロジェクトが、今回の映画『TOKYOてやんでぃ』だ。

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「男はつらいよ」以来誰も成功していない人情コメディ、しかもこれまた誰も成功していない一幕もので勝負したい!

舞台は慣れ親しんだ楽屋。それも落語の世界、寄席の楽屋。狙い通り、キャラクターの立った芸人さんたちが次々と出入りする姿をテンポ良く、それでいてドキュメンタリーのようなアングルで生き生きと映し出す素晴らしい映画に仕上がった!

 

「あの主人公、不器用だよね。馬鹿だよね。……だけど、ああいう生き方があってもいいよね。そんな感想を抱いてもらえたら嬉しい。人間の生き方の多様性を描きたかった」と語る。

 

 

映画で町興しを!
城東4区インフラ構想

氏は、『TOKYOてやんでぃ』を、地域の区民センターや公民館、ひいては町内の小さな料理店などで上映していきたいと考えている。

 

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「映画が斜陽産業となった今日、従来の在り方のままでは未来はありません。電車で町へ出かけて観るという在り方からは、変わらないと。映画には、まだ〝人が集まり、地域を活性化する〟ツールとしての可能性が残っています。ご近所との繋がりが薄くなったことが危惧される時代だけど、映画になら、それらを繋ぎとめる粘着剤としての役割が果たせるんじゃないでしょうか。

どういうことかというと、映画の方から近所までやってきて、レストランや居酒屋、魚屋さんや商店街とか、そういった人の温もりがある身近なところで、温かい映画が頻繁に上映されるようにしたいんです。それを地域の人が一緒になって観たら、面白い展開が生まれますよね。映画を共通言語としてコミュニケーションがとれるんじゃないでしょうか。

そうした活動をまずは人情の町、葛飾区で始め、ゆくゆくは、墨田、江東、江戸川、葛飾の城東4区合同での動きにしたいですね。映画だけでなく、講演や、落語等ライブ性のあるエンタメと魅力あるセットにしながら、下町のエンタメインフラを構築したいと思っています」

 

実は、氏は10年ほど、地元の町内会の活動を熱心に行っている。地元のために一生懸命に汗を流してきた実績と繋がりがあるのだ。下町インフラ構想は、真似しようとしてもできないしっかりとした積み重ねから生まれている。

そしてまた重要なのは、監督が熱い理想を掲げているだけでなく、映画に関する確かな知識や経験、ノウハウを持ち、業界としっかり繋がっている現役のプロフェッショナルであるという点だ。シーンから見向きもされないような場所で理想を語り、吠えるだけなら誰にでもできる。しかし、監督には輝かしい実績がある。ここに説得力があり、城東4区エンタメインフラ構想も、現実味を帯びて響いてくる。

 

 

「てやんでぃ」の精神
~監督の魂に流れるもの~

この息苦しい時代、「生き苦しさ」を感じることばかりだ。監督のような考え方の人間が一人でも多く声を上げ、次世代の若者たちが自分はこれでいいんだ、こうして夢をみていていいんだ、勝ち負けじゃない、お金だけじゃない、幸せには色々な形があると思える社会、価値観の多様性を認め合える社会を築いて欲しいと思わされる。

 

「落語とは人間の業の肯定である」とは立川談志の言葉だが、こうして監督の想いに触れてみると、氏が処女作のテーマに落語を選んだことは必然であるように思えてくる。

「てやんでぃ」という言葉の意味は劇中では明かされず、ここで説明するのはそれこそ「野暮」であるため控えるが、監督は現在の社会が持つ、勝ち負けやお金を偏重する風潮に対して「てやんでぃ!」と気持ち良く啖呵を切ってくれる、威勢の良い「御兄さん(おあにいさん)」と言えるのではないだろうか。今後の作品、そして下町エンタメインフラ構想の実現に大いに期待したい。

 

プリント

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▼TOKYOてやんでぃ 公式サイト▼

http://tokyo-teyandei.com/

 

※この記事はBigLife21 2014年4月号に掲載された記事です。

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