株式会社泰和電器 代表取締役 小泉正美氏

芝居やスポーツの世界では〝いぶし銀〟という言葉がよく使われる。
けっして派手ではないが、玄人受けのする渋い業や独特のテイストを持った名バイプレーヤーのことだ。素人目にはさほど面白くもないが、実のところ舞台の出来も試合の出来も、そのいぶし銀の仕事次第ということが少なくない。

この泰和電器(本社/東京都大田区)という会社がまさにそれだ。一般の消費者からはまったくと言っていいほど気にも留められないが、電機電設業界では知る人ぞ知る名バイプレーヤーである。同社代表取締役、小泉正美氏の話と周辺の声を軸に、詳しくレポートする。

 

配線・接続器具と照明器具を二枚看板に
電機電設業界に新機軸

まずはこの会社の概要とこれまでの歩みについて、いささか述べておきたい。
創業は1944年(昭和19年)、今年で67年になる。フォークリフトやベルトコンベアなど工業機械用の配線・接続器具(コンセントやコネクタ)と、天井クレーンなど、大型機械設備の通電表示・工程表示に用いる標識灯や投光器を二枚看板に、ある意味で業界に新機軸を打ち立てた、老舗の町工場としてはきわめてユニークでアグレッシブな電気機械器具メーカーである。
新機軸とは何か。
電気機械に〝高い安全性〟という今なら当たり前の概念を、業界に先駆けて製品開発に不可欠なファクターとして取り込み、かつそれを瞬く間にスタンダード化してしまった歴史的な事績である。ある程度お歳を召された同業並びに電気事業関係者なら今もおそらく記憶されているだろう。1958年(昭和33年)に発売された、いわゆる〝伊沢式安全コネクタ〟がそれだ。簡単にいうと短絡、俗に言うショートにより発生した大電流を速やかに機械から大地に逃がすことで、火災や引火爆発の事故を未然に防ぐ仕組みを備えた電気配線の接続器具である。

その名称は、発明者であり同社創業者でもある伊沢光夫氏(故人)に由来する。

 

ということでその伊沢氏が同コネクタを発明し、世に送り出すまでの足跡と経緯、ついでながら人物像についても少しく述べておこう。

 

静岡県焼津市の出身で、森電機(本社/東京都港区)に25年間勤務し、電灯、電路器具の研究開発に長く従事、技術部長にまで上り詰めている。関係者の話を総合すると、謹厳で実直な技術者気質と、温厚で誠実なお人柄を併せ持ったかなりの人格者のようだ。
「独立するに当たっても、森電機さんに迷惑がかからないよう製品や市場が競合しない分野を選ぶなど、細心の注意を払っていたようですね」(小泉氏、以下同)

というわけで氏が当初のターゲットに選んだのは、出身地の焼津をはじめとした各地漁港の造船所だったという。様々に工夫を凝らした中小型船舶用の電灯や電装品を開発、製品化し、販売することで、〝大繁盛〟とは言えないまでも、それなりに凌ぎは出来ていたようだ。

 

社会問題化のピンチ?が一転チャンスに

そんな伊沢氏に転機が巡ってきたのは、戦後復興も新たな段階に入ろうという昭和20年代の終わり頃だ。

製造業、建設業を中心に大量生産に向けた設備の大型化と機械化が一気に進み、いきおい電力需要も太く大きく伸びたことから、ビジネスチャンスが飛躍的に広がってきたというわけだ。

 

中でも氏が着目したのは運搬機や起重機などの土木建設機械で、それらに使われるより利便性の高い耐震灯具や配線器具を矢継ぎばやに開発、持ち前の技術力と誠実な人柄が功を奏したようで、業績はそれまでの横這いから堂々の右肩上がりに転じたという。

しかし言うまでもないが、同社の名を決定的に世に知らしめたのは前記した〝伊沢式安全コネクタ〟である。開発のきっかけは労働災害だ。当時の事情や背景を考えればある程度は仕方がないのかも知れないが、どのメーカーの何がというわけではなく、急速な機械化に連れて不適合や不具合、誤操作などによる事故が急増していたようだ。とりわけベルトコンベアに使われる電装品の不具合による事故、災害は、1957年度から労働統計で報告されることになり、放置すれば大きな社会問題になる恐れもあったという。そこで、

「もちろんそれまでも安全第一の製品づくりを心掛けてきたようですが、おそらく伊沢は、それだけではもはや足りないと考えたんでしょうね」

 

要するに、仮に電装品の不具合が起きようが作業員がうっかり誤操作をしようが、兎にも角にも短絡したら強制的、自動的に余剰電流を逃がす仕組みをコネクタの中に作るしかない、という発想である。
伊沢氏は直ちに労働省安全研究所(当時)の指導を受けて研究開発に着手、翌年には製品化(特許取得)を果たし、晴れて世に送り出すことになる。ちなみにその後すぐに省令が改正され、移動する電動機にはすべてアースが義務付けられることになった。これを受けて、

 

「大手、中小を問わず、全国の機械、電機器、ケーブルメーカーなどから注文が殺到したようですね」
ピンチが一転チャンスになり、それを見事に活かして見せたというわけだ。

余計なお世話ながら、その後の業績はもちろん〝大繁盛〟である。

 

バッテリーフォークリフトではシェア9割!
石油ショックもリーマンショックも柳に風?

羽田航空機整備工場

さて、ここらで話の方向を同社の現況と今後の展望に移したい。
駄洒落で恐縮だが、接続(コネクタ)はチカラなり、である。

 

「ちょっと極端にいうと昭和20年代、30年代、40年代に開発したそれらのコネクタと周辺機器だけで、この半世紀以上を生きてきたようなものです(笑)」

ちなみに現在この国で稼動しているバッテリーフォークリフトは、そのほとんど、9割近くが同社のオリジナルコネクタを使って充電している。着岸している客船やタンカーなどのいわゆる陸電=陸上からの充電=も同様だ。

その後の大手の参入もあって、さすがに半世紀前とは売り上げの嵩も売り先の数も相対的に減ってはいるが、要するに今も特定の分野では、紛れもなくガリバー企業だということである。そういう特殊な背景もあってのことだろう。かつてのオイルショックやドルショック、バブル崩壊や先年のリーマンショックにもほとんど影響を受けることなく、きわめて順調にきたというから、世の大多数のモノづくり企業にとっては羨ましい限りである。しかしそれはそれとして、課題はもちろんないわけではない。

 

「モノが単純で寿命も長いことから、斬新さとかデザイン力といった付加価値を生み出しにくいんですね。その分、ややもすると会社の活力を損ねることもあるのではと危惧しないではありません。昔はそんなこと、思いもしませんでしたけど」

 

これには少々、説明が必要だろう。

 

毎日が経営改革と技術革新

小泉氏が社長に就任したのは09年1月で入社は1989年(平成元年・42歳時)。それまでは大手電話器メーカーの日通工に在籍し、東北の製造課長まで勤めている。母方の叔父で、当時の社長(現会長)でもあった浅見達男氏による、いわばヘッドハンティングである。
「行き掛かり上、社長を引き受けることになったが私にはモノづくりがまったく分からん。現場のことは全部任せるから、会社を辞めて手伝えなんて言われましてね」

ちなみに浅見氏は公認会計士で、伊沢氏が生前中から同社の経理をみている。行き掛かりというのは、伊沢氏亡きあと会社を売却することになり、その手続きを伊沢家から委託されていたからだ。しかし土壇場になって問題が生じる。会社を売るなら俺たちは辞めると、社員らが言い出したのだ。そこで仕方なく浅見氏が株式を買い取り、社名も旧来通りにして社長を引き受けることになった、というわけだ。

「それにしても面白かったですね。毎日が経営改革、技術革新でしたから」

 

特定の分野ではガリバーといえど、内実は家内工業である。効率化やコスト意識、タイムイズマネーといった認識がまるでなかったというのだ。たとえば1本3万円の電気ドライバーを導入したときの話だ。
「なぜそんなに高いものを。普通のドライバーなら5百円で済むのになんて言うんです。でもみんな、使い始めて分かってきたんですね。そのほうがどれだけ効率的で、品質維持や時間短縮も含めたらよっぽど低コストになるということが」
他にも労務管理や在庫管理、仕様書の書き方から発注先の選定まで、ありとあらゆる作業が、ある意味杜撰でアナログ的だったようだ。そんなこんなを丹念に飽くことなく改革し、企業らしくなったのはようやくここ10年のことだという。

とまれ問題は、今後の課題である。

 

「実は今、北海道のメーカーと提携して漁船で使用するコネクタを開発しているところなんですよ。これにはこれまで以上に高度な防水性やコンパクトさが要求されます。他にも一層の安全性や環境負荷の低減など、取り組むべき課題は山とあります。問題はそれが可能な活力と技術力、機運をどう盛り上げるかだと思っています。

そのためには新鮮な若い血を積極的に取り入れることも必要でしょうし、それ相応の社員教育も必要でしょう。まもなく創業70周年を迎えますが、そのときにはもう1ランク上の会社にしておきたいと考えていましてね。そのためには私自身も、伊沢が残してくれた業と、浅見が築き上げてくれた健全な財務基盤(無借金経営)を基に、新生泰和電器の舵取りをしっかりやっていこうと、気持ちを新たにしているところです」

 

とくに気負うでもないのに、強い思いがひしひしと伝わってきた。この人もまた、けだしいぶし銀である。

 

※本記事は2011年9月号掲載記事をもとに再構成しています。

【プロフィール】
小泉正美(こいずみ まさみ)…1946年山梨県都留市生まれ。
県立谷村高校卒業後、日通工入社。本社の資材部主任や東北日通工の製造課長を経て1989年、社長室付き現場責任者として泰和電器入社。1994年取締役。2009年代表取締役に就任。
家族、妻。趣味、読書(インカ帝国やメソポタミアなど古代文明や世界遺産等に関わる書物を愛読)及び写真(高校時代は写真部所属)

株式会社泰和電器
〒143-0015 東京都大田区大森西2―32―4
TEL 03―3768-9811
http://www.taiwa-denki.co.jp

年商:4億円

従業員数:25名