業界に先駆けて三次元CAD/CAMなどの先端システムを導入して工程を短縮するとともに高精度とコスト低減を実現。

「人材が第一」とする小椋社長は、組織社内では社員の能力を引き上げる教育システムを作り、地域では企業が互いに連携・補完できることを目的とした組織のリーダーでもある。

 

災害地でも業績を回復

小椋庄二 株式会社北日本金型工業/代表取締役社長
会津産業ネットワークフォーラム代表

福島県会津若松市にある北日本金型工業は東日本大震災での被害は比較的少なかったが、小椋社長は東京電力の「想定外」と言う認識に責任逃れを感じ、「地元民の身にならなければいけない。思い切って資産を売却して潰すつもりで弁償させろ」と憤る。

 
が、被災地の人の言葉にしてはかなり大人しい。本来は、責任者全員が刑事責任を問われるべき重大事故でありながら「想定外」「天災」という名の下に隠れ、当局が動き出さないのが不思議なくらいである。

 

なぜなら、被災地の当事者には申し訳ないが、原発の事故に関しては、日本人の多くは「大した被害もなく、直ぐに納まるだろう」と思っていたのだ。

 

事故のスケールはチェルノブイリやスリーマイルよりも小さいと報道され、日本の原子力技術は世界に冠たるものがあると、学者たちがテレビで喋っていたからである。

 

さらに、日本はロボットの先進国だから、ロボットが炉の中心部に入って、サッサと必要な処理をして「一件落着」となるだろうと期待し、信じていたのである。しかし、東電は事故を想定せず、何の準備もしていなかった。危険物の認識がない当事者の責任は重い。犬だって放し飼いにして人を噛めば、飼い主は罪を問われるのだ。
こんな災害地にもかかわらず、震災時の北日本金型工業の業績は堅調で、利益は前期を上回っているという。震災後、一週間ぐらいは取引先との連絡が途絶えたが、通信や交通が回復するにつれて防災関連の仕事が入ったことに加え、7年ぐらい前から仕事の幅を広げるために営業を強化し新規顧客の開拓を進めていたこと、昨年から地域の業者と連携して、互いに補完できる体制を構築していたことも幸いした。
さらに「うちの社名は金型工業ですが、金型は半分強で、後は射出成形です。金型は典型的な多品種少量生産で、儲かりませんから」と言うように、設計から射出成形、組込みからメンテナンスまで一貫して受注し、携帯電話、自動車、精密機器、バッテリー関連まで守備範囲を広げていたことも震災の被害を最小限に食い止めることに寄与している。

 

北日本金型工業が株式会社として設立されたのは1978年(昭和53年)だが、小椋社長が個人で創業したのは1972年(昭和47年)である。

 

当初は人材集めで苦労

 

小椋社長が創業した年は札幌オリンピックが開催され、田中角栄が「日本列島改造論」を発表し、会社として設立された1978年には新東京国際空港が開港し、日中平和友好条約が調印されるなど明るい話題があった。が、小椋社長にとっては、儘ならない苛立ちの月日だった。
数年前に大手半導体メーカーが工場を建て、近隣の若者5000人の就職先となっていて人材が集まらなかったのだ。話題になりそうなビデオを作って学校も回ったが、6人程度の会社に大卒は入ってくれなかったのである。

 

効率化と高精度を目指す小椋氏は、4000万円をかけてコンピュータによる設計(CAD)2台を購入、さらには数値制御(NC)フライスも購入したが、CAD/CAMをこなせる人材が欲しかった。が、人材は確保出来ず「私自身が研修に通っていた」のだった。

 

 

ちょうどその頃、中途採用者の募集をしたら、大卒でラジコンメーカーの開発をやっていた人が家庭の事情で郷里に帰って来ており、応募があったので採用した。彼はコンピュータに詳しく、CADを使って仕事をこなすのではないが、才覚があり、システムを作るのに長けていた。そこで、「いずれ二次元は終るから、三次元を構築しよう」と言うことで、3年がかりで研究に取り組むことにしたのだった。
そしてバブルが弾け、大手企業の事業再編が始まり就職難になると、「とうとう、うちにもチャンスが巡ってきた」のである。

 

大卒、高卒を入れて人員を増やし、3年たってシステムが出来ると、社員一人一人にパソコンを与え、ペーパーレス化を実現。2003年(平成15年)には二次元CADを廃止し、本格的に三次元金型加工を開始した。

 

 

一方、平行して成形部門においては射出成形機の油圧機から電動機への切り替えと共に5軸リニアー取り出し機や自動ストッカーによる無人化を推進した。

 

今は正社員56名(内大卒者14名)、準社員、臨時社員含め総勢67名だが、開発設計者は全員大卒で、各部署にも数名配置している。

 

 

「これから、地方の中小企業の生きる道は優秀な人材にかかっている」と小椋社長は言う。

今は価格競争になりがちだが、それに巻き込まれては駄目で、共倒れになるのである。それを避けるためには、営業が客と接して得た情報を現場に移行することが大切だ。設計にしても、CAD/CAMを使って1年ぐらいすれば出来るようになるが、それはあくまでもCAD/CAM上のことで、金型を作っても、それを使う立場の経験はないのである。

 

使う立場が分かるためには、3〜4年かかるが、充分に客の意を汲んで現場で活かすためには、それぞれの立場で意志の疎通が出来るように、人材の質の向上が必要になる。そのために3年前から専門の講師を呼んで人材教育をやっているが、各人の全体的なレベルを上げるもので、人事評価で選別するものではない。

 

また、今はメーカーから買ったソフトをそのまま使って作業しているが、例えばロボットを100%使いこなすには、自分で進化させ、それが出来なければメーカーに要求することが必要になる。今、より理想に近付けるため、独自のソフト開発に取り組んでいる。

 

 

 

金型業界は決して順風とは言えず、厳しい状態が続いている。統計によって多少の違いはあるが、2000年(平成12年)に入り、産業統計に入らない小規模な事業所を含めると、15000社ともいわれていたのが、現在では8000社を切っている。規模で見ても、社員が何百人もいる会社は大手で、30人もいれば中堅になるのである。

 

 

北日本金型工業は創立以来40年の歴史があるが、その間、幾つかのチャンスもあった。

 

その一つがバブル崩壊後の1991年(平成3年)7月から施行された改正電波法だった。たまたま関連の仕事をしていた取引先に協力会社の紹介を頼まれたが、紹介した会社の統廃合などがあって、結果的に携帯のバックライトの製作を北日本金型工業で引き受けることになり「昼夜問わずお客様の要望に応え、バブル崩壊で他社が苦しむ中、非常に儲けさせて頂いた」のだった。

 
もう一つは海外進出である。当時、カセットの設計から金型、射出成形、組込、メンテナンスまで一貫して引き受け、輸出もしていた。現地では大手商社が世話もしてくれていて、海外取引経験は豊富。海外への進出を考えたのは2001年だった。

 

たまたま、課長時代から付き合いのあった大手商社の中国駐在経験のある人が定年退職になったことを機に、彼を責任者にして中国進出を計画。自らも中国に出向き、20数社調査して決意を固めた。銀行の了解もとり、工場の土地も決め、現地のスタッフも揃えた。が、ここまで準備が整った最終段階で小椋社長は中止したのである。金銭的には痛手だったが、全ての責任をとった。
理由は中国に対する文化的な不信感だった。

 

「もっともこれは、私の過去の経緯から心の隅にわずかに染み付いていたキズのようなものかも知れませんが…」と小椋社長。後で話が違ったり、不当な要求をされるなど、これまでに中国や台湾、中近東などで苦い経験をしてきており、そのことから「自分の気持ちの中に不信感があれば中止すべきだ」と決断したのだった。

 
これまで、東北で中国経験のある会社と東北大学、山形大学の先生たちと数回にわたり「中国ビジネス研究会」に参加し勉強してきたが、そこで得た結論は、人材を含めて力のある会社でないと、「金を持って捨て身で出て行っても成功しない」だったのだ。

 
文化の違いとは、端的に言えば神があるかないかの違いである。日本人は信仰心があついとは言えないが、「神様」や「お天道さま」に対して恥ずかしくない行いをしようとする「恥の文化」があり、キリスト教やイスラム教圏の人々には神に裁かれる「罪の文化」がある。

 

が、中国にはないのだ。中国の道教は長生きして仙人になるためのもので、その最高神とされる天帝は皇帝が天子として自らを権威付ける方便だし、儒教にしても主従の礼節を教えるものである。

つまり、畏怖や畏敬の対象は「人間を超えたもの」に対してではなく、全て人間に対するものである。

 

だから、『三国志』を見ても分かるように、勝つためには何をやっても恥ずかしくないし、罪の意識もなく、神に裁かれる恐れもないのである。
こんな文化では、まるでルールのないゲームのようなものだから、ビジネスでは、各人が「俺がルールブックだ」と言って『三国志演義』を実践しているようなものである。

だから、体力も腕力もない「フツーの会社」が相手をするのには、中国が国際標準の条約や規約に調印し、共通のルールを持ってからでないと危険すぎるのである。
「身の丈にあった経営」を信条とする小椋社長が中止したのは自然なことだったのだ。

 
そして、「海外に出なくてもやっていける。本気でやれば乗り越えられる。本気にならない会社は衰退する」と断言するのは、7年前から営業を強化し、2008年(平成20年)のリーマンショック以来33%落ちた売上を、震災があったにも関らず数%ぐらいまでに回復させ、利益はむしろ増加させた実績に裏付けられたものである。
それもこれも、「人材が第一」とする小椋社長の信念の賜といっていいだろう。    ■

 

 

●プロフィール…おぐら しょうじ/福島県出身。1945年(昭和20年)生まれ、66歳。1961年(昭和36年)、株式会社明輝製作所(現(株)明輝)に入社。6年後、独立した先輩の会社に移り、その後、先輩の仲間と3年間の約束で共同経営をし、その間に手形や銀行法、金融などの基礎を学び、手形の恐さを知った。1972年(昭和47年)独立。1978年(昭和53年)株式会社北日本金型工業を設立し、代表取締役社長に就任。現在に至る。受賞歴…日刊工業新聞社/第19回優秀経営者顕彰地域社会貢献賞。

 

 

株式会社北日本金型工業
〒969–3461 福島県会津若松市河東町浅山字仲田40–1
TEL 0242–75–4731

http://www.njmould.co.jp

 

※本記事は2011年11月号掲載記事を基に構成しています。