世界最先端の工作機械の製作・開発からあらゆるメーカー製の機械修理・メンテナンスまで手がける株式会社茂呂製作所。グローバル企業から山梨県内の中小モノづくり企業までを陰で支えながら、常に挑戦を続ける気鋭の経営者、茂呂哲也同社代表取締役に話を伺った。

高い技術力で信頼を掴む

茂呂製作所の 外観

山梨県は古くから豊富な天然資源を背景に鉱業が盛んで、近代に入って宝飾加工、光学電子機器、金属機械などの製造業が発達した地域だ。甲府盆地の北西部、峻険な山々を抱く南アルプスユネスコパークにほど近い風光明媚な韮崎市に、今回取材に訪れた株式会社茂呂製作所は社屋を構えている。

同社代表取締役茂呂哲也氏は現在49歳。2011年8月、先代社長(父)から40歳で経営を引き継いだ少壮の経営者だ。

株式会社茂呂製作所 茂呂哲也氏

「私自身は技術者になれませんでした。この会社でも最初は営業からスタートしました。根っからの技術者だった父は会社を大きくすることには興味がなかった。それで代わりに自分が事業として成立させて、数多のモノづくり企業の困りごとを解決していきたいと思ったのです」

茂呂代表の努力の結果、今や同社は国内外に300ものクライアントを抱える企業に成長した。

 

「海外での展開を積極的に行ったのが理由の1つです。2020年はコロナの影響で難しかったのですが、私も1年の大半はタイや中国、ベトナムやミャンマーなどで活動しています。やはり社長である自分自身が出向くと仕事のスピード感が全く違う。ですから私が自ら赴いて商談をしています」

そう言って笑う茂呂代表に、同社の強みである技術力の「凄み」について伺った。

 

「『よく御社の強みは?』と訊かれるのですが、わからないんですよね。何か尖ったことをしているわけではありません。それでも、お客様から、『茂呂製作所は、何でも対応してくれる』とお褒めいただけることは素直に嬉しいです。

ただ、社員達と話をしていても、自分達としては、ただ当たり前のことをしているだけだよな、と。一つだけ、言えることは、お客様の期待に日々誠実に応えようとしてきたからこそ、今日の姿があるのだということ。おかげさまで、数多くの企業からご用命いただく機会が増えたことは誇りに思います。少しは、地域のモノづくり産業を裏方として支えることができているのかな」

実は、茂呂製作所のクライアントには、山梨県を代表する企業、産業用ロボットメーカーF社をはじめ、パナソニックなど数多くの企業がいる。F社はロボット系統のモーター製造に関して世界シェア70%を占める企業で、世界4大産業用ロボットメーカーの1つに数えられている国内屈指の優良企業として名高い。茂呂製作所は、このF社の治工具製造を多数行っている。

 

「F社とは15年ほど前に商社からの紹介で取引が始まりました。同社では当時、製造ラインの増設に対してそれを保全する人材の不足を課題としていた。その全てをメーカーへ依頼できるわけがなく、どうにかできないかと考えていた時に、同じ山梨県内に保全対応ができる会社があると商社から弊社の名前が挙がりました。

よく大手企業様から『メーカーの人間でもないのにこの機械を直せるのか』と思われることは多いのですが、私たちからしてみれば誰かが造った機械なのだから『私たちにだって蓋を開けてみれば分かる』という自信がありました」

実際に、様々な業務に対応してみせると、F社は茂呂製作所の技術を高く評価してくれた。その後、製造もしているのならとF社で使用する治工具の仕様書を見せてもらえるようになり、製造ライン用の治工具などの製作も依頼されるようになった。

現在では同社の担当者から「茂呂さんがいなければ仕事にならない」とまで讃えられるようになった。

「しかし」と茂呂代表は笑う。

高い技術力を持つスタッフたち。

「機械というものは見る人が見れば原理がわかるので、どこをどう直せばいいのかがわかります。でも技術者はそれをあまり自慢にしません。『自分にとっては簡単な仕事なのだから大したことはない』と言うのです。もっと広くアピールしてその腕を誇ってもらいたいのですが」

この茂呂製作所の技術者にとっては「当たり前」とされている高い技術力と、真摯にモノづくり企業の課題を解決し続けてきた実績と信頼の積み重ねが、同社の何よりの強みだ。

 

はたして、その高水準な技術力のルーツはどこにあるのだろうか。

 

祖父、そして父と受け継がれてきた職人の血

茂呂代表は「父は根っからの技術者だった」と話す。

「父にもっと商魂があったら会社は全く違うものになっていたと思います。世間が驚くような機器を、父が10年も前に作っていたこともありました」

 

水と油が混ざった廃液を、吸い取ったその場で分離できる掃除機。先代社長の発明品。便利な機械を独力で作り上げたが、それらの多くは自分たちの作業環境を快適化するという目的で作られたものだったという。「発明品の一部を製品化する、という商売っ気が父にはなかったんです。ただ、だからこそ誠実にモノづくりができたんだと思いますが」(茂呂代表)

「一般に開発者は既存の道具から使える機能を集めて新しいものを作りますが、父はゼロから新しいものを生み出すことができる人でした。いうなれば発明家に近い人でした」

 

ここで、更に時を遡り、茂呂製作所の歩みに触れる。物語は、茂呂代表の祖父丙二が戦時中、山梨に疎開してきたところから始まる。丙二は戦前、東京の下町で、旋盤を使い、軍需品の切削加工をしていた。それが戦中になり、戦火が酷くなると旋盤を持って東京を離れる必要がでてきた。その疎開先が山梨だった。現在の山梨県とのご縁はここで生まれている。

日本中が辛酸をなめ、苦しんだ時代。その期間が終わり、終戦を迎えると、戦争が終わったこと自体は喜べたが、軍需品を作る旋盤の仕事はすっかり無くなってしまっていた。しかたなく、丙二は旋盤を倉庫にしまいこんだ。別の仕事を始めるしかなかった。

そんな丙二の姿を見ていた息子、茂呂代表の父も技術者の道を志し、工業系の高校に進んだ。しかしそれも束の間、高校に通う17歳の時に祖父が早世してしまう。急転直下、祖母と父、叔父の3人でとにかく何か仕事をしないと食べていけなくなった。それで、祖母は倉庫に閉まった旋盤を出してきた。埃を被ったその旋盤を使って何かできないか、と。山梨県は当時、水晶など宝石類が数多く産出された地域だった。そのため、水晶の加工業が盛んだった。

 

「そこで父は遺された旋盤で、宝石の加工に用いる治工具を製造する仕事を始めたのです」

しかしそれだけでは3人が食べていくには足りなかった。他に何か仕事はないかと探した時に、先代社長の技術者の目はここでも、山梨県の産業の特性から答えを見つけ出す。

山梨県には果樹園が多い。果樹園では水中ポンプで地下水を汲み上げて使っていたのだが、このポンプが故障すると東京からメーカーの技術者を呼んで修理をしてもらう必要があった。しかし、東京から駆けつけてもらおうにも、時間がかかる。水が止まっている間に、樹木が枯れてしまうことが儘あり、農家は非常に困っていた。そこに先代社長は目をつけた。

ポンプメーカーと交渉した先代社長はポンプを修理する事業を始める。当初はメーカーの純正部品を使って修理していたが、緊急時には旋盤で必要な部品を自作して対応するまでになった。

 

「とはいえ、先述したように父は商売っ気の無い人だったので、私の生まれた1971年を過ぎる頃まで祖母を含めて6人程度の家内工業規模でやっていました。祖母が味噌汁を作り、宅配弁当を工場の全員で食べる、という当時の光景をよく憶えています」

家族が営んできた事業は1978年に法人化、そして3代目の茂呂代表へ引き継がれていくことになる。

 

父に反発していた青年時代

「……しかし私はそんな父の姿が嫌いでした。最初は会社を継ぐ気も全くなかった」

自分の仕事に専念し、家庭を顧みない父に対して「家に帰ってこない人」というネガティブなイメージを持っていた。茂呂代表は、父のようになりたくないと思いながら幼少期を過ごした。しかしやりたいこともないので父の言うがまま工業高校に進学するも

 

「そもそも学校に行く意義もあまり感じられなくて。結局1年生の時に中退してしまいました」

退学した茂呂代表は家にも寄りつかず、夜の街に出入りするようになっていった。

 

「当時はバブル真っ盛り。時勢もそうでしたが『お金が全て』だと思っていた。派手な生活をするのが恰好いいと勘違いしていた。当時は、甲府で水商売のアルバイトをしていたのです。でも、色んな人と出会い、いい面も悪い面も目にしていくうちに、このままではいけないと思うようになったんです。『こんな人生は続くはずがない、マズい』と」

数年後、茂呂代表は、家に帰る。親不孝だった息子を先代社長である父は快く受け入れてくれたという。

 

「父と初めて本気で将来について話し合いました。私の話を聞いた父は仕事先を紹介してくれた。パナソニックのグループ会社の生産技術の保全部門で、高校中退の自分でも入れるように父が話をしてくれたのだと思います。20歳の時でした。5~6年ほど勤務したのですが体調を崩したのを機に退職しました。もう妻も子もいましたので、養っていくためにすぐ働く必要があったのですが、その時も父が手を差し伸べてくれた」

こうして実家に戻り家業を手伝うようになった茂呂代表は、常に「やってみればいいじゃんか」と言ってくれる父と二人三脚で会社を盛り立てていくことになる。

茂呂製作所 社員一同

父の事業を受け継ぐ決意

 

まずは技術者になろう!と旋盤やフライスの使い方を訓練していたのですがお客様からの要望もあり「『技術のことは中途半場だが知っているものを活用して技術営業を担当していこう』となり飛び込み営業もして顧客拡大に走り回りました」

とはいえ、当時はまだ事業を継ぐことは考えていなかった。

 

「継いで苦労するのは嫌だな、とずっと思っていた。それは父にも話していて、納得してくれている雰囲気でした。しかし周囲から『親父は本当は継いで欲しいと思っているよ』とも聞かされた。自分は他の経営者のように大学で経済や経営を学んでいるわけでもない。だからどうしようかと悩みながら仕事を続けていました」

しかし、その気持ちを変える1つのきっかけがあった。

 

「……35歳くらいの時、ある経営者研修に参加した時に『親への感謝』の話になった。それで、自分は今まで紆余曲折があったけれど、その度に父が懐深く受け入れてくれたじゃないか、と気づくことができたんです。そのとき、『父の会社を守り伝えよう』と、会社経営への意欲が湧いてきたのです」

経営の面でやりたいことが増えていたのも後押しになった。茂呂代表は入社した時から、今後は顧客の要望に応えるだけでなく提案的な修理も必要になると考えていた。「与えられた課題を完璧に果たす」だけではなく、更にその先を見据えていかねばならない、と。

また茂呂代表は、会社を拡大していくためには社員教育が必要不可欠だとも考えていたが、「こういった点からも自分が経営を指揮していきたい、と考えるようになった。それで41歳の時に『自分が継ぐよ』と伝えると、父も『お前にやってほしい』と言ってくれた。父も長く苦労してきましたから、肩の荷を下ろしたかったのでしょう」

 

「親父の息子として生まれ、いま父から会社を任され、やりたいことをさせてもらえている。父に感謝です」

そう語る茂呂代表は、自然と祖先にも感謝しなければ、と思うようになった。

「『茂呂家のルーツを知りたい』と父に聞くと、珍しく『うちの先祖はな……』と話してくれた」

その時はじめて、茂呂代表は自分のルーツが栃木県にあることを知る。

 

「『先祖の墓参りに行きたい』というと、誘ったつもりはなかったのですが、父が『わかった。俺も行きたい』と。

そこで、コロナ禍で海外出張の機会もなかったので、2020年の夏、父と栃木県にある茂呂家のルーツを巡る旅をすることになりました。これまで仕事一筋だった父は68年ぶりの墓前だったそうです」

父から会社を引き継ぎ9年。年商は3倍になり、社員も倍増した。父の願いに茂呂代表はしっかりと応えている。

人の手が必要なメンテナンスという仕事

 

現在、茂呂製作所の取り組みは、一修理業者に留まることなく、日本の製造業全体の底支えを目指そうとしている。

「AIの進歩により機械修理の仕事は減っていくでしょう。耐久期間が過ぎれば故障する前に部品やユニットごと交換してしまう手法も主流になってきています。しかし、全く無くなることはありません。修理はどうしても人の手を介在しないとできませんから」と茂呂代表は話す。

「たしかにメーカーにとって遠隔地のアフターケアは重荷になりますし、私たち修理業者も広範囲をフォローするのは難しい」

例えば、と茂呂代表は言う。

車で片道3時間かかる場所に修理に行ってみたら、原因はブレーカーが落ちていただけだったとしたら、修理代金をもらうのは人としてできないし交通費も貰いづらい。結局は出張した分だけ赤字になってしまう。

最近はコロナ禍の影響もあり、オンライン相談の対応も。

「だからといって遠方から来る修理の依頼を断るのも悔しい。そこで友人に相談して、機械修理ドットコムというサイトを立ち上げました。これは地域間の横の繋がりを利用し、各地の修理業者などと情報を共有して近隣の修理案件を手伝ってもらうものです。

『機械は開けてみれば分かる』と話しましたが、どんな種類の機械でも人間が作ったものなのだから必ず人が直せる。今まで触れたことがない機械だって、どこかにその機械の専門家がいますから、その人と連絡をとりながら修理することはできる。そう思って立ち上げました」

茂呂代表の「地元のモノづくり企業の困りごとに何とか応えたい」という想いが、地域の専門技術者の掘り起こしと、そのネットワークづくりへとつながっているのだ。

恩返しより恩送りの心で、モノづくりを次世代の憧れの仕事に

最後に、今後の目標について伺った。

「工具の製造販売メーカー、として進んでいきたいと考えています。弊社は数奇な道のりの結果、製造と修理の両方ができる稀有な治工具メーカーになりました。以前ある企業の技術保全部門の人が『こういう治工具があったらいいのに…』と言っていたものを、弊社のスタッフがサラッと作って見せたことがあります。

治工具を見た企業の人が売ってくれ!と言ってきました(笑)。こういうものを商品化していけたら面白いのではないかと思っています。商品にして人気が出たら作った弊社の技術者たちの励みにもなります。私の願いは、社員皆が自分達の技術力に誇りを持ち、お客様のどんな困りごとにも誠実に応えることができる存在になりたいというものです」

 

「そのためにも、しっかりと技術を承継していかなければならない。現在、10人の海外人材を受け入れています。他にも様々技術承継についての策を講じています。日本は今まで後進にしっかり技術を受け継ぐことを怠っていたのではないでしょうか。『技術は見て覚えろ』『そもそも自分のものだ』『社員なんか育てなくていい』。こういった考え方がモノづくり日本を衰退させてしまったのではないか、と危惧しています」

 

「私が個人的に大切にしているのは『恩返しより恩送り』という言葉です。人生の諸先輩方、ご先祖様から受けた数えきれないほどのご恩を、私は次の世代に送り届けたい。それが本当の意味での恩返しにもなると思うのです。だからもっと技術を受け継ぐことに力を注がなければならない。仮に育てた社員が独立しても、自分たちがカバーできない分野を担ってもらえば、業界全体の発展に繋がる。それでいいじゃないか、と心から思うんです」

 

「今からでも遅くはない。培ってきた技術を次へ伝えていく。自分1人では難しいかもしれませんが、中小企業が幾つも集まれば可能になる。皆で若手を育てていければいい」

田舎の工場ですが、東京のオフィスのようにオシャレでカッコイイ工場にしようと思い、設備投資をしています。若い人だけでなく、子供たちにも憧れられる製造業・修理業にしていきたい。

 

「何より、働いている人々が楽しい業界にしたい。そうすればまた日本のモノづくり産業は輝き始めますよ」と話す茂呂代表。

「いつか幼い子が『僕は製造業のスーパースターのメンテマンになりたい』『私もメンテちゃんになりたい』と言ってくれたら嬉しいですね。これが目下の私の最大の目標です」

自然豊かな山梨に、モノづくり日本の将来を担う気鋭の経営者が現れた。

茂呂製作所のメンテマンとメンテチャン

 

茂呂哲也

1971年生まれ。高校中退後、1990年に父の創業した茂呂製作所に入社。2011年に同社代表取締役に就任。

株式会社茂呂製作所

〒407-0001 山梨県韮崎市藤井町駒井3169

Tel:0551-23-3366 Fax:0551-23-6644