オビ 企業物語1 (2)

とら屋事務株式会社  ‐ やるからには一番を目指すという哲学『小さなことでも負けを良しとしない』

◆取材:綿抜幹夫/ 文:渡辺友樹

 

とら屋事務株式会社 竹林豊明 (1)

とら屋事務株式会社/代表取締役会長 竹林豊明

 

事務用品販売業として創業され、オフィス移転から内装まで幅広く事業を手がける「とら屋事務株式会社」。地元板橋区に根ざした堅実な経営で、創業70年を目前に控える。父の起こした同社を発展させたのは、二代目社長で現会長の竹林豊明氏。小さなことでも負けを良しとせず、やるからには一番を目指す強いハングリー精神で、激動の時代を生き抜いてきた。

 

 

ハングリー精神の源は生い立ちにあり

貧しい地域で育った少年時代

同社は、同氏が生まれた年に創業された。大分県から姉を頼って上京し、東京藝術大学を出た創業社長の父・偉唐氏は、後に区議会議員も務めた人物。養子だった偉唐氏、国がある限りなくならない商売をしようと考え、文具販売に目を付ける。並べたミカン箱の上に戸板を乗せ、ノートや鉛筆などの文房具を並べて売り始めたのが始まりだ。

当時の板橋は、貧しい地域だった。近所には有名な遊郭があり、商店街のすぐ裏がそこの女性たちの住処で、親が誰とも知れぬ子どもが大勢いた。当時の富裕層である米屋や八百屋の子どもたちは、学校では同氏と仲良くしても、町で会うとツンとそっぽを向き、同氏たちの遊び場には寄り付かなかった。

こうした地域に育ち、兄が身体が弱かったこともあって、同氏は父から「お前は一人で生きていけ」と言われて育った。少年期に培われたハングリー精神は、その後の生き方を決定づけた。

 

 

家を追い出された高校時代

父・偉唐氏が地元の大分から東京の姉の元に送られたのは、手が付けられないほどの暴れん坊だったからだ。その血を受け継いだ同氏も腕白に育ち、番長だった。高校1年を終えて間もない頃、地元のやくざ者二人を打ちのめし意気揚々と帰宅すると、血相を変えた父が待ち構えていた。喧嘩しているところを店の者に見られ、父に告げ口されたのだ。

「やくざ者と喧嘩するような子に育てた覚えはない」と、店の外まで蹴り出され、そのまま勘当。大学の入学金を頼みに戻るまでの2年間、小金井のアパートを借り、高校生ながらラーメン屋台や土方、バーテンダーなどのアルバイトをして生活した。

 

 

学生運動に打ち込んだ大学時代

日本大学に入ると、学生運動にのめり込む。2年生のとき、日大生で初めて全共闘の執行部となった。応援団に呼びつけられ、竹刀で脅された時には、公安もいた。既に自民党の区議会議員となっていた父からはひどく叱られたが、職員による学生会費の使い込みを追求するなど、自らの正義を貫き盛んに活動した。

卒業後はサラリーマンをしながら、今度は後に中曽根派となる新政同志会のメンバーとなる。当時の座長は櫻内義雄氏だ。女子バレーの監督として有名な大松博文氏が参議院選に出馬した際には、都内近県の遊説で前座を務めた。

自身が政治の道に進まなかったのは、東京藝術大学を出て区議会議員となった父を見ていたからだ。父のバックは医師会だった。いわゆるエリート感覚が抜けず、商売に於いても人に頭を下げることができなかった父。一方、貧しい地域で身に付けたハングリー精神で、ビジネスや商売の才覚を発揮した同氏。一時は政治活動に傾倒したのも、正義感の強さ故だ。

 

 

営業成績ナンバーワンのサラリーマン時代

大学卒業後、就職したのは東芝系列の販売会社。東芝の系列各社で、販売台数を競うレースがあった。「どうせやるなら一番になりたい」と、全国一位の成績を収めた。その会社は、某週刊誌が創刊号で取り上げるほどの、今でいう「ブラック企業」だった。

「竹刀や木刀でぶっ飛ばす会社。売り上げのない社員は毎日のようにぶん殴られていた。それもあって、ナンバーワンになってやろうという想いが強かったですね」

買ってもらえそうだと思えば、下ろし立てのスーツで、油を引いた板の間に土下座した。ダントツだった営業力を買われ、若くして川崎支店の立ち上げ副所長を任された。

 

 

とら屋事務の二代目として

突然の後継者指名

父の偉唐氏は、区議会議員との二足の草鞋を履くようになってからは仕事に手が回らなくなっていた。加えて、兄も身体が悪かった。こうした事情から、同氏は12カ月連続ナンバーワンという偉業を残してサラリーマン生活を1年間で終え、同社に入社。やるからには一番を目指すという信念に突き動かされた営業力を遺憾なく発揮する。

その後、正式な社長就任は1986年だが、事実上の後継者と指名されたのは、1977年に本社ビルを建て替えたときだ。

「父から『この建物の返済は俺はもうできない、お前が返済しろ。つまりお前が建てるということだ』と言われたんです。びっくりして、とっさにどれだけ時間がかかるか頭の中で計算しましたよ。兄も具合が悪かったですし、ああ、これは暗にお前が跡継ぎだと言ってるんだなと察しました」

 

 

S社とのライバル関係

同じ板橋区に、業界日本一のS社があった。創業も同時期で、ライバル関係にあった両社。同氏は、S社には絶対に負けないという気持ちが強かった。

入社数年後、S社が同社の顧客に対して、相場以上の割引をした相対見積りを掛けてきた。憤慨した同氏は、さらに割引いた額の見積りをS社の顧客に持ち込み、奪われた分以上の顧客を奪い返す。最終的にはS社の社長が謝罪に訪れ、以後は互いに顧客を奪い合うこともなく、穏便な関係となった。

その後、S社は多店舗展開し、23区すべてに営業所を出すまでに成長した。不動産を買わずに賃貸物件を使うことでコストを下げ、広く展開していったのだ。同氏はこの手法に否定的だった。

「事業というものは地に足を着けてやらないと。店舗を出すなら土地建物を自分で取得するべきで、借り店舗でやるなんて商売じゃないという考えがありましたね」

売り上げを伸ばし、拡大していくS社を見て羨ましく感じることもあったが、同氏は「最終的には土地を持っている方が勝つ」と信じていた。

「いずれ俺の方が勝つよって倅にも言っていましたよ。その代わりお前死に物狂いでやれと。業界日本一の会社と戦うんだから、相手にとって不足はないんだからと。社員に対しても、営業に行って負けて帰ってくるようなことはするなと言っていました」

一時は年間売上高200億円を超える勢いのあったS社だが、ネット通販の台頭などから売り上げが落ち込み、今年2月、100億円の負債とともに倒産という最後を迎えている。

 

 

販売する以上は修理もできなければ

S社に勝つために、販売店としてクライアントの信頼を得るには、メンテナンスもできなければいけないと考えた同氏。自ら外資系も含めてメーカーの講習に通い、資格を取得した。自分で修理できるようになることで、NTTなど大手の仕事も舞い込んだ。

「販売するからには自分で直せなきゃだめだと。いまの文具屋は、メンテナンスはみんなメーカーにお願いしますってやってる。それじゃいつまで経ってもメーカーの奴隷ですよ。そんなんじゃ商売なんてものは伸ばしていかれないですよ」

 

 

時代が変わっても

根性のあるやつがいなくなった

同社は、社員規模を削減している。というのも、育て甲斐のある若者が減ったと感じるからだ。首尾よく軌道に乗ることばかりを目指し、その後は現状に胡座をかき、努力を怠ってしまう。

とら屋事務株式会社 竹林豊明 (2)

「力のある若者がいなくなりましたよ。根性がないやつは、育て甲斐がない。変なのがいたんじゃ、何のためにこっちも働いてるのかわかんないですから」

 

一度採用すれば、面倒を見なければならない。社員数は、同氏時代の全盛期が66名、現社長が人員削減を進めた現在は32名だ。

「金太郎飴みたいな人間ばっかり育っちゃうでしょ。こいつはっていう取り柄が何もない。すぐに諦め、努力をしない、そういうやつらの墓場ってのは決まってるんですよ」

地元の商店街を見ても、信念のありそうな店長はいなくなった。同氏の小さい頃は、スーパーの袋を下げて店の前を通ると怒るような商店街の店主がいた。どこも朝の8時半から夜は11時まで、店を開けていた。みな、生きるために必死に努力していた。

 

 

中小企業を見捨てる政治への不信

とら屋事務株式会社応接室には「君が代」に詠まれているさざれ石が飾られている

しかし、真に憂うべきは国の舵取りだ。大企業は中小企業をおびやかし、大型ショッピングモールは日本から商店街を消滅させようとしている。日本企業の95%以上を占める中小企業。そこで働く国民にとって、高齢者を抱えて子を成し育てていくことは貧困を意味する。同氏は、こうした現状に見て見ぬふりをする安倍政権、また岡田民主党にも、大きな不信を抱いている。

「貧乏を知らないトップでは不安ですよ。子どもたちに『将来の不安なんて、一生懸命努力すれば大丈夫だよ』などと簡単に言ってやれる状況ではないでしょう。政治が中小企業対策を真剣に考えなければ、我々は未来に希望を持てませんよ」

次代への想い「夢の持てる社会を」

昨年9月、息子の武彦氏に社長職を譲り、会長となった同氏。同氏は今年で69歳、武彦氏は43歳。同氏は、自分以上に将来の日本経済への不安を感じているという武彦氏に向けて、「夢を持てる新事業を創出してもらいたい」との希望を口にする。

当の武彦氏の反応は「難しいなあ」の一言だというが、同氏が「仕事は一番にならなきゃだめだ」とその哲学を注ぎ込んだ後継者だ。ブログ『とらや事務㈱ 代表のつれづれ』でも骨太な考え方を発信しているその頭脳と手腕に期待したい。

 貧しい地域で育った少年時代、学校の外で目を合わせてくれなかった米屋や八百屋の子どもたち。彼らは昔ながらの業態から抜け出せずに苦しみ、廃業した者も多い。文具販売での長年のライバルS社も、今年になって倒産した。持ち前のハングリー精神で、どんな小さなことでも負けを良しとせず生きてきた同氏。「私の頃は、努力して結果さえ出せばなんとかなる世の中だった。今はそうではない」と語るが、時代が変わっても、その哲学から学ぶことはまだまだ多い。

 

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◉プロフィール/竹林豊明

1946年、東京都板橋区生まれ。日本大学経済学部卒業後、一般企業への就職を経て、 とら屋事務株式会社入社。1986年、代表取締役社長に就任。2014年、代表取締役会長に就任。現職。

バイオセーフティテクノ株式会社 代表取締役・社団法人板橋区産業連合会 副会長・社団法人池袋労働基準協会 副会長・財団法人予防環境協会 評議員・板橋区障害者就労援助事業団 理事・板橋災害予防協会 副会長・板橋区国民保護協議会委員・板橋区次世代育成推進協議会委員・板橋区バリアフリー推進協議会委員・板橋区地域福祉活動計画策定委員・板橋区情報公開及び個人情報保護審議会委員

 

とら屋事務株式会社

〒173-0004 東京都板橋区板橋3-24-9

TEL 03-3964-7711

http://www.torayazimu.co.jp/

従業員数:32名

年商:12億円(2012年8月期実績)

 

2015年8月号の記事より
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