オビ 企業物語1 (2)

ART-HIKARI株式会社 ‐ 未来の溶接技術を次々「先回り開発」、モノづくり大国再興を支える技術メーカー

◆取材・文:渡辺友樹 /撮影:西村真実

 

ART-HIKARI株式会社 (2)

ART-HIKARI株式会社/代表取締役社長 古川一敏

 神業「アルミのシーム溶接」を実現!

世界唯一の技術を開発し続ける抵抗溶接機械メーカーのART-HIKARI株式会社。中堅商社の取締役本部長から中小企業の社長へと転身した古川一敏氏は、数十年後の社会状況を予想し、独創的な発想でさまざまな技術を「先回り開発」してきたアイデアマンだ。

 

◎「技術力」こそ日本唯一の資源  

■資源のない国・日本

ART-HIKARI株式会社 (1)現役の技術者である同氏だが、工場内でも常にスーツ姿だ。理由を尋ねると「作業着を着るのは、失敗したり汚したりするから」。工場をバックに、痺れる一言だ。
「ニーズが生まれてから開発するのでは遅い。今後は電子工学の時代から遺伝子工学の時代になる」と予測する同氏は、将来のニーズに即座に応えられるよう、既にさまざまな開発を行っている。また、日本のエネルギー問題に貢献するべく独自の発電システムも研究するなど、幅広く「先回り開発」を進めている

資源を持たない日本が世界と勝負するには、「モノづくり」しかない。資源を手に入れるために起こした先の大戦は、戦闘機や戦艦などの技術力では勝っていながら、最終的には資源不足によって敗戦したという見方もできる。

敗戦後は、食べ物も仕事もない貧困が待っていた。焼け野原となった一等地には安価で工場が建てられ、生き残った人々は「食えないよりはいい」と握り飯ひとつでも仕事を受けた。

アメリカの下請けとして自動車や船を作る仕事からの再起だったが、工場もタダ同然、人件費もタダ同然、技術力は世界随一であれば、成長しないわけはない。戦勝国を向こうに回し、敗戦国日本は経済大国へと駆け上った。

 

■価格競争ではなく、高価でもニーズがある唯一無二の開発を

そして現在。バブル崩壊やリーマンショックでの大打撃に苦しむ日本は、再びかつてのような成長を遂げることができるのだろうか。技術力は依然高いとしても、人件費や土地に関しては世界一とも言えるレベルで高騰している以上、既成技術のコスト競争で中国やインドに勝つことは難しい。

価格競争の中では技術の発展など見込めず、コスト削減のための海外生産による技術の流出も抑えられない。

日本の製造業に必要なのは、安いものを作る技術ではない。世界中どこに行ってもできないもの、「金に糸目はつけないから作ってくれ」と言わしめる技術だ。

 

 

◎アルミのシーム溶接

■神業「アルミのシーム溶接」は、理想の溶接追求の通過点

ART-HIKARI株式会社 (5)アルミのシーム溶接機(写真右)。200kgという軽さと大電流4万Aを兼ね備えた自社製電源機構を搭載。従来の電源機構を搭載したシーム溶接機械(左)の重量は約4t

同社が2014年に開発した「シーム溶接」。アルミのシーム溶接は神業とも言える技術だ。現在でも、窓枠などアルミ素材を接合する方法はほとんどがネジ止め。それほどアルミ溶接は難しい。

神業を実現させたのは、理想的な溶接への熱意だった。理想の溶接は、他社の既製品を組み立てた機械では成しえない。多くはそこで諦める。不可能とされていることはやはり不可能、夢のまた夢なのだと。

しかし同社は違う。なければ作ってしまえばいいと、電源も、トランスも、モーターも自作した。結果生まれた理想の溶接機では、不可能とされていたアルミの溶接も可能だった。小さく軽いため、ロボットにも搭載できる。「アルミの連続シーム溶接をロボットで行う」という、夢のような技術の実現だ。

 

■異種金属の溶接

アルミの溶接だけではない。同社の技術なら、電源と加圧の繊細なコントロールによって「異種金属同士の溶接」も可能となる。鉄が溶ける温度は1538度、アルミは660.3度と、金属ごとに抵抗値が異なり、別種の金属を溶け合わせることなど不可能に思える。しかし、電源と加圧のコントロールで金属の融点を変えてしまうことで、同社はすでに「鉄とアルミ」や「ステンレスとアルミ」といった異種金属間の溶接に成功している。

 

■絶縁物を挟んだ溶接も可能

トランスと電源以外に同社の溶接技術の鍵となっているのが、電源に取り付けたセンサーだ。アルミの溶接は4万Aという大電流を通電させるため、何度も行ううちに酸化物が電極に付着し、頻繁に爆飛が起こったり、電流が流れなくなったりしてしまう。

同社ではこれを防ぐため、溶接点の状態を電源にフィードバックする制御システムを開発。従来の溶接機械はおよそ10~30打点ごとに「ドレッシング」と呼ばれる電極の研磨をしなければならなかったが、同社のセンサー付き電源であれば、アルミに対して700打点を超える使用でも電極の使用に問題はないという。

この高性能電源を使えば、従来不可能だった「絶縁物を挟んだ溶接」も可能になる。金属と金属の間にゴムやコーティング剤といった絶縁物があれば、当たり前だが電気は流れず、溶接できない。しかし、ゴムが溶けた瞬間をフィードバックし、電流を一気に流せば、表面に絶縁物がある金属でも溶接できてしまう。

 

◎中小企業の社会貢献とは 

■「一品もの」で大企業と対等に

ART-HIKARI株式会社 (4)羽田空港のD滑走路(2010年10月オープン)工事で活躍した「鋼管ジャケット溶接」機械(クライアント:新日鐡住金)。海上に敷設された桟橋部において、海中で滑走路を支える柱を錆びさせず、コストも抑えたいという難題に対し、鋼管の表面に0.4mmという薄さのステンレスを貼り付ける発想力と技術力で応えた。旅行で訪れた金閣寺から発想を得たという

同社が独自の技術を開発し続けてきた背景には、大量生産品は大企業に任せ、大企業にできない「一品もの」を創出し続けるという経営戦略がある。大企業の弱点は、小回りが利かず、スピードや機動力に劣ること。ならば中小企業は、中小企業ならではの機動力を駆使し、大企業から業界の最新の動向などの情報を入手できる存在になれば良い。大企業と対等に情報を交換するためには、大企業に技術を提案できる立場にたつこと、そのための「一品もの」だ。

 

■開発費は助成金のみ

同社は、クライアントの大手企業から開発費の提供を極力受けず、可能な限り国や行政からの助成金を開発費に充てるように努めてきた。世界唯一の技術を開発し続けるために、毎年一度は何らかの受賞や認定を得ている。

クライアントから開発費を得てしまうと、その企業の専属のような関係になり、目先の安定と引き換えに自由な開発やビジネスを行えない、実質的な下請け業者になってしまう。長い目で見れば、それは必ず自らの首を絞める。相手が大企業であっても、あくまでもクライアントとは同格であること。それが、中小企業として生き残るための戦略だ。

 

■「あった方がいい会社」であれ

同氏に言わせれば、世の中の会社には3種類ある。「あった方がいい会社、あってもなくてもいい会社、そしてなくてもいい会社」だ。たとえば、採算も合わないのに価格を下げて仕事を取る会社。開発費など出ないだろうというムードを自分たちで作ってしまっている会社。

こうした会社は、ない方がいい。人が人として尊重されるような社会を作っていくために、いた方がいい人、いてもいなくてもいい人、いない方がいい人がある。人が社員に言い換えられ、その集合が会社になる。そうして、社会が形作られていく。

2000年代半ば、同氏は「2030年の世界」を想像し、開発すべき溶接・接合技術の予想図を描いた。技術の進歩や材料革新はもちろん、エネルギー情勢や気象変化、世界情勢のグローバル化など、自然・政治・社会・経済などあらゆる側面から世界の将来動向を予測。そのとき必要とされるであろう溶接技術の開発に、先回りして着手したのだ。

 

 

◎「発想家」古川一敏の半生

■技術革新とともに成長した世代

ART-HIKARI株式会社 (6)どこにもない技術の「先回り開発」には、独自に開発した電源の制御機構が大きく貢献している。小型・軽量ながら大電流を流せる同社の電源には、幅広い企業や研究機関から電源のみの発注もあるほどだ

1951年、長野県に生まれた同氏。父は飛行機の設計、叔父は自動車関係の仕事をしていた。親戚の集まりで交わされる技術の話に付いていきたいと、負けず嫌いな古川少年は必死に勉強した。

自然と興味は機械いじりに向かい、おもちゃの自動車や家の柱時計に至るまで、どうしてこのように動いているのかと、ばらばらに分解せずにはいられなかった。手当たり次第に分解と組み立てを繰り返すうちに、簡単な玩具や道具であれば、自分で一から作ってしまうようになった。壊れて直らなくなった物も多かったが、そこから原理を学んだ。

生活費を稼ぐためのアルバイトは、機械を触れる弱電関係の仕事を選んだ。戦後の貧しい時代は、急成長の時代でもある。同氏は、猛スピードな技術の進歩に立ち会った幸福な世代だ。小学校時代は真空管、中学のときトランジスタが出てきた。高校時代にIC、大学を出る頃にはコンピューターの時代を迎えていた。

 

■中堅商社の取締役本部長から町工場の社長へ

1972年、溶接機や切断機等の輸入商社である愛知産業株式会社に就職後は、技術職を兼ねる営業マンとして活躍。商品を車に積み、自らハンドルを握って日本中を回った。順調に昇進し、2002年には取締役本部長に就任。

同族経営である愛知産業株式会社で、経営者一族以外の社員が就ける最高職である。しかし、同氏はその地位にあっても、「技術屋」としての夢を捨てていなかった。

 

「自分にもできる。自分もやりたい」。30年にわたって世界の技術の最先端に触れ、機械好き少年の血は一層、騒いでいた。愛社精神もあり、多くの部下を抱え、大切な顧客もたくさんあった。「10年は悩んだ」というが、個人的にも尊敬する井上裕之・愛知産業株式会社社長(現・会長)からの心強い後押しもあり、2008年の大晦日に退社。中小企業を率いる社長としての人生が始まった。

 

■「Yes, we can.」をモットーに毎年2〜3割の成長

57歳、安定を捨てての独立は賭けだったが、「勝算がないわけではなかった」と語る同氏。技術と発想力を武器に、同社の業績は毎年2〜3割ずつ成長しているという。「Yes, we can.」をモットーに「不可能を可能にするために自分たちで作ってしまおう」という精神で作られた同社の機械は、部品ごとを見ても極めて高品質。細かな制御が可能な電源装置など、単体での発注も多いという。

 「尊敬する人はレオナルド・ダ・ヴィンチ」と語る同氏。同社のロゴマークも、ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」をアレンジしたデザインだ。イメージを現実に変えてきたのが日本の製造業。我々が失ってしまったものは、夢を見続ける力かも知れない。

 

オビ ヒューマンドキュメント

ふるかわ・かずとし…1951年、長野県生まれ。

学 歴

1972年 東海大学短期大学電波通信工学科卒業。

2007年 九州工業大学大学院生命体工学研究科博士後期課程修了。

職 歴

1972年 愛知産業株式会社に入社。

2002年 取締役第一事業本部長に就任。

2008年 東京工業大学非常勤講師。

2008年 愛知産業株式会社を退社。

2010年 ART-HIKARI株式会社代表取締役社長に就任。現職。

2012年 東京工業大学特任教授。

受賞歴

2004年 第1回金澤賞

2007年 第19回中小企業庁長官賞(低加圧・片面スポット溶接機)

2007年 第10回ベンチャー技術大賞 都知事特別賞

2007年 第28回発明研究奨励金

2007年 東京都産業労働局 助成金(東京工業大学・愛知産業・渡辺解体での「先進的モバイル型アスベスト溶融無害化リサイクルシステム」共同開発)

2007年 優秀省エネルギー機器表彰(小型スパッタレス抵抗溶接用トランス)

2008年 省エネ大賞

2009年 「ぐんまの1社1技術」に選定(抵抗シーム溶接機)

2010年 群馬県中小企業団体中央会 ものづくり補助金

2011年〜2013年 戦略的基盤技術高度化支援事業(サポイン事業)に採択

他、現役の技術者として、現在までに研究開発歴・受賞歴多数。

 

ART-HIKARI株式会社

http://www.art-hikari.co.jp/

〒374-0054群馬県館林市大谷町2918番地

TEL 0276-71-1180

FAX 0276-71-1182

〈東京営業所〉

〒141-0033東京都品川区西品川3-19-6リビングライフ大崎ビル1F

TEL 03-6420-0246

FAX 03-6420-0247

主要納入先(同社サイトより転載):

トヨタ自動車、トヨタ車体、日産自動車、日産車体、本田技研工業、本田技術研究所、三菱自動車、富士重工業、日野自動車、スズキ自動車、ダイハツ、日立製作所、東芝、三菱重工業、三井造船、新日本製鉄、JFE、神戸製鋼、トステム、パナホーム、日立金属、アイテック、タナカ、富士フィルター工業、川崎重工業、他