三宅晶子 株式会社ヒューマン・コメディ 代表取締役

 

典型的な不良少女だった。ルールを押しつける親や学校にイラつき、酒にタバコに万引きに、とお決まりの道を突き進んだ。無免許で違法改造したバイクを乗り回し、ケンカに明けくれ、家を飛び出し、男の家に入り浸る。夢もなく刹那的に生きた毎日。

そんなある日、母親が病気になった。さらに折り悪く、母親が入院している間に高校を退学になってしまった。その事実を告げに向かったさき、病室で目にしたのは、心労から痩せこけた母の姿だった……。

 

それから30年近い月日を経た2015年12月12日。

大人になった少女は大舞台に立った。事業の夢を語るコンテスト「ドリームプラン・プレゼンテーション」の決勝大会。

実に二千人にも及ぶ聴衆が彼女の話を聞き入った。彼女はそこである夢を語った。その夢は多くの聴衆の賛同を呼び大賞を受賞する。

そこで語られた夢のカタチが現在のヒューマン・コメディだ。

 

企業物語

株式会社ヒューマン・コメディは非行・犯罪歴のある人の採用支援事業を行っている会社だ。代表である三宅晶子さん自身がこの会社を立ち上げるきっかけには、ある少女との出会いがあった。

それは三年前、奄美大島にある少年少女のための自立援助ホームでのことだった。

 

三宅さんは十年務めた大手企業を退職後、ボランティア活動でその施設を訪れた。人材育成の道に進もうと考えており、どうせ人と向き合うなら生きづらさを抱えた人と接しようと、自立援助ホームや受刑者支援の団体にボランティアとしてかかわらせてもらった。その中で親しくなったのが、彼女だった。

 

当時17歳だったその少女は、両親が健在にもかかわらず、方々から見捨てられた子だった。人生の大半を施設で過ごしていた。その助けてという心の悲鳴は色々なシグナルを発するのだが、発露の仕方は極めて不器用であり、施設が手を焼いてしまう子だった。

 

「けど、ものすごく優しくて、生きるエネルギーがある子だなと思ったんです」と第一印象について三宅さんは話す。ボランティア中にこの子と仲良くなろう、と三宅さんは自室に呼んで彼女の髪をとかしてあげたり化粧をしてあげるなど、距離を縮めた。

 

ボランティアから東京に戻って約半年後、彼女から手紙が届いた。彼女は度重なる悪事で逮捕となり、少年院に入っていた。内容は日常のことや、運動会の短距離走で2番になった、など些細なこと。

その手紙が三宅さんの人生の転機になる。

 

「彼女ともっと深く関わりたいと思いました。そして彼女の出院後の人生に思い至るようになったんです」

 

三宅さんが少女の人生を気にするのには理由があった。

 

施設の現状

現在、日本には児童養護施設・少年院・少年鑑別所など18歳以下の犯罪者に対する様々な収容施設がある。少年犯罪の場合、警察に検挙されてもまずは児童福祉法が優先され、保護者に戻すか児童相談所に通告という方法がとられる。それを経てなお裁判が必要とされるものだけが家庭裁判所へと送致される。

現在この送致人数は、ピークの昭和58年の39062人から大幅に減少し、平成27年は5412人になっている(『犯罪白書』より)。

 

ところが再犯率の方はさしてかわらず、少年院を出院した年に再び犯罪を犯し再入院する者は全体の3.2%、5年以内だと21.7%にも上る(同)。

 

「出院しても元いた環境に戻ればあっという間に以前の生活に戻り、再び犯罪に手を染めてしまう。親というブレーキのない子ほどその繰り返しになりがちです」

 

こういったお決まりの道に流されてしまう少年犯罪者。少女もこの道を辿ってしまうのではないか、と三宅さんは危惧したのだ。

 

「それで、出院後の彼女の身元引受人になって家に連れてきたい、と夫に申し出たんです」

 

三宅代表のその意見にご主人も賛成してくれ、二人は動き出した。しかし現行の法律では全くのアカの他人が未成年者の身元引受人になることは非常に難しいことだった。

 

「だったら養子縁組をしよう、と夫が言ってくれたんです。その時点ではまだ会ったこともない2人でしたが。本当に感謝しています。まぁ、私が一度言い出したら聞かない性格なのを知っていてのことかもしれませんが(笑)」

 

そんなご主人のバックアップを受けて話は進んだ。少女も承諾してくれた。

 

「彼ら、彼女たちの全てが、社会復帰しても待っている人がいるわけではない。まして人生のほとんどを施設で過ごしていれば、社会での生活も知らない。だから、少年院・刑務所に戻ることに躊躇しない。そういう子たちがちゃんと社会復帰できるまで支援する行政のチカラは、あまりに弱い。

また、その少女からの手紙には『罪を犯して行き場が無くなったら、親が助けに来てくれるんじゃないかって思ったこともあった』と。彼らはみんな居場所を探しているんです。いつか親が来てくれる、そんな淡い思いすら抱いて。だったら私が彼らの居場所を作りたいと思った」

 

そして同時に、彼女が働ける場所を用意したいとも思ったのだそうだ。三宅さんのその想いから出発したヒューマン・コメディ。その社名には「人生を喜劇に。過去をネタにして笑って生きれるように。たとえネタにできないような間違いをしてしまったとしても、そこから人の役に立つように生きて、最後に笑って死ねたら、それも喜劇」という思いを込めている。

設立は2015年。起業の日は、きっかけになった少女の誕生日にした。

 

「『私なんかでいいんですか?親からも嫌われているし、ダメなやつです。後悔しますよ』と話していた少女も、『キミの誕生日に、少年院や刑務所を出た人のための会社をつくったんだよ。誕生日にしたのは、設立記念日にみんなで「生まれてきてくれてありがとう」って伝えたかったから』と話をしたら泣いていて。私も一緒に泣いて。心が通いあえたのかなと思いました」

 

 

現実の難しさ

そのまま進めば話は美談だったかもしれない。しかし、現実は上手くはいかなかった。

2016年1月に彼女は出院。東京での生活が始まった。何かと不便だろうからとスマホを買い与えた。通話料はバイト代が入ったらでいいから、と。

 

「そうしたらアッという間に彼氏を作って。SNSで知りあった地方の男の子で、しばらくして彼女に会いに東京に来たんです。彼女がその男と出かけていく姿を見て、ヤな予感はしたんですが。案の定、その夜に電話がかかってきて『これから二人で生活する、家にはもう帰らん』と。その瞬間に口を突いて出ましたよ、『何やっとんじゃ、男出せ!』って(笑)」

 

三宅さんが怒るのには理由があった。出院してまだ二ヶ月。実はこの時はまだ保護観察中であり、保護者の下を離れて家出することは遵守事項に反していたのだ。場合によっては少年院への再送致もありえた。

 

「再びあそこに戻すわけにはいかない。なので1週間以内に必ず帰ってきなさい、と説得しました。その時は説得に応じてくれて。それから何度か彼の家に行ったりきたりを繰り返して。ところが、それと前後するのですが、養子縁組の手続きは時間がかかるものでして、私と彼女の関係は、そのころまだ正式に養子にはなっていなかったのです」

 

恋をしている少女にとって、三宅さんの存在は口煩い親そのもの、疎ましがられるようになってしまう。

 

「彼女にとって私は人生の邪魔者でしかなくて。それで家庭裁判所で調査官に、私とは『養子縁組はしません』とハッキリ答えたそうです。本人からも、『別に養子縁組したかったわけじゃない。戻る場所が施設でさえなければどこでもよかった』と言われ、私は自分の気持ちが通じていなかったことが非常にショックだったのですが、これはもう本人の希望だからどうにもしょうがありません」

 

全てを打ち砕かれたと感じたという三宅さん。親になるという覚悟なしに同居を続けることは無理だと思った。少女は更生保護施設という、保護観察中に入居できる施設に移動することになった。

 

 

 

気づけば、自分の嫌っていた大人の姿になっていた

彼女が僅かな間暮らした家を出る前日のことだった。三宅さんは自分がそれまでの彼女との生活を振り返っていた。

 

「そのときにふと、全てを彼女のせいにしている自分に気がついたんです。そこで矢印を自分に向けてみたら『親はこうあるべき』という思い込みで、色々なことを押しつけている自分がいました。

彼女を社会復帰させる手段だったはずの養子縁組がいつの間にか目的となり、逆にこだわっている自分、それを彼女に拒絶されたと思っている自分がいたんです」

 

それは、三宅さんが少女の時に嫌っていた大人の姿そのままだった。

 

 

新潟で生まれ育った三宅さんは、中学に入った頃から、いわゆる「不良少女」になった。

毎日毎日ケンカばかり。学校にも行かなくなり、親や先生の言うこと全てにイラつき、反発した。

なんとか滑り込んだ高校にもほとんど通わず、家にも帰らずに男の家からアルバイトをして暮らした。当然出席日数は足りなくなり、高校からは5ヶ月で退学処分を受けた。

 

「そんな頃でした。母が重い病気で手術を受けて入院してしまったのです。それで病床の母に退学の報告に行ったんです。私の話を聞きながら、母の頬を涙が流れ落ちていた。その涙を見て、自分の人生が堕ちているな、でも、自分は絶対にいまの状況をネタに変えると決めたんです」

 

 

 ヤンキー、早稲田大学に行く

決心はしたが、学校は辞めさせられていて、何をしたらいいのか分からない。そんな時、仕事先のお好み焼き屋に父親が現れた。

 

「二人で食事をした後、父がデカルトの『方法序説』を渡してきたんです。読んでみろ、と。それで翌日から仕事の休憩時間に読みだしたんですが、これが難しすぎてサッパリ解らない。国語辞典と英和辞典を首っ引きで読んでも、注釈すら解らない」

 

「今これを読むのは無理だけど、勉強して大学に入れば、きっと読めるようになる」。そう考えた三宅さんはそこから高校に入り直し、勉強した。そして見事23歳で早稲田大学に入学した。「けれども、未だに『方法序説』、解んないんですけどね(笑)」。

 

そんな経歴の三宅さんだからこそ、少女の未来を危惧して全力を注ぎ、そして少女の反発を招いた。少女の気持ちに寄り添えていなかった。

 

「それで彼女が家を出る前日、彼女の部屋に謝りに行ったんです。布団に潜っている彼女に泣きながらそれまでのことを詫び、そして『もし施設に行くよりはここにいたい、と思うならここにいてね』と言いました……」

 

布団を被ったまま何も言わなかったが、少女は家に残った。そして、それから1年半。

 

「そのあとも色々ありまして(笑)。彼女は1年間で3回妊娠、2回流産。今年9月に第一子が生まれたんですが、当時の彼氏とはもう別れて、今は別の彼氏と暮らしています。とにかく自分の家族がほしいんですね。私としては彼女が困ったときに助けられればいい。たまに彼女と赤ん坊に会いに行っています」

 

 

辛いことも「ネタ」にできる社会を創りたい

そんな関係を築けている二人。三宅さんは現在、ヒューマン・コメディの活動で全国を飛び回っている。

 

「刑務所で矯正教育を受けている懲役の人達は数多くいます。その中で身寄りのない人、誰も手を差し伸べてくれる人がいない人も多いのです。出所しても手にした報奨金は数万円程度ですから、そこから社会復帰を遂げることは本当に難しいのが現状です。

社会復帰の難しさも含めて罪を犯したことへの社会的制裁なのだ、と世間は思うかもしれませんが、当事者は再び犯罪に走る可能性が高まるだけですから、余計な被害者を生むぶん、かえって社会的な損失は大きくなります。

 

やはりやり直しのきく社会的包摂性のある世の中を作りたいですよね。それが回りまわって社会を1メモリでも良くすることに繋がるはず、という信条でヒューマン・コメディは駆けています。幸いなことに、私のこの想いに共感して頂ける企業も増えてきました。現在お力になっていただける企業は十数社にも及んでいます」

 

実際に、刑務所から三宅さんのところに連絡が入るケースもあるそうだ。その人の働きたい、という覚悟をしっかりと見極めて、この人なら大丈夫というところまで向き合ったうえで人を企業に送り出していく。ただ、それでも就職してすぐに逃げ出してしまうなど、難しいところはあるという。「ただ、めげません」と力強く語る。

 

「送り出した人がきちんと働いていると報告を受けると、本当に嬉しくてですね。確かに難しいところはありますが、この先、当社が社会のセーフティネットとして機能を果たしていけるよう、また持続性あるビジネスとしても、きちんと発展させていけるようになれば、多くの人の社会復帰をサポートしていけますので、そこまではしっかりと頑張りたいと思います。

やっぱり一度道を踏み外したらもう戻ってこれないような社会にはしてはならない。そんな経験も『ネタ』にして笑っていけるような、そんな人が増えるといいと心から願っています。なにより、養子縁組はしなかったけれどもあの子が就職を考えるときに『ママの会社に来な!』って受け皿になりたいですからね(笑)」

 

 

2年前、ドリームプラン・プレゼンテーションの大賞を受賞し表彰台に立った三宅さんはその場で「亡き父や母が、力をくれたんだと思います」と語っている。

この発言がもつ意味は大きい。ぐれていた彼女が更生できたのは、涙を流してくれた母と、信じてくれた父からの愛ということなのだろう。発言がその事実を物語っている。受賞者として三宅さんの名が呼ばれ放心状態の最中口をついて出た言葉が親への感謝ということの素晴らしさ。彼女は自分を信じてくれた親の愛を受け止めていた人なのだ。

 

世の中にはその親の愛を知らずに育った人がたくさんいる。彼女がやろうとしていることは、その親の愛を知らない人達を、信じるという事業だ。

容易なわけがない。それでも彼女がやろうとしていることは偉大なことであり、尊いチャレンジだ。

 

今、社会には余裕が無くなり、道を外れた人への風当たりは強い。罪を犯したことがある者を擁護すれば、「被害者の気持ちを考えろ」と跳ね返ってくるような時代だ。ただ、時代の趨勢を想うとこれは仕方のないことなのだろう。それでも、「人は変われる」。力強くそう語る三宅さんには社会を変える熱情がたぎっている。応援したい、心からそう想える人だ。

 

三宅晶子(みやけ・あきこ)……1971年新潟県生まれ。早稲田大学第二文学部卒業。日中間貿易事務、北京・バンクーバー留学を経て、2004年大手情報通信系企業に入社。通販MD、個人情報保護監査に携わり、2014年退職。ボランティアとして児童養護施設や受刑者支援の団体等に関わる中、非行歴や犯罪歴のある人の社会復帰が困難な現状を知る。2015年7月、(株)ヒューマン・コメディ設立。非行歴・犯罪歴のある人の採用支援をおこなう一方、研修・講演等をおこなう。現在、日本初の出所者向け求人誌『Chance!!』を制作中。

 

株式会社ヒューマン・コメディ

〒170-0013 東京都豊島区東池袋4-23-6 ドミー池袋206

℡:03-6914-0753

http://www.human-comedy.com/

ドリームプラン・プレゼンテーション2015世界大会動画
https://www.youtube.com/watch?v=EDhgfYoIBdM&feature=youtu.be