万能工具研削盤 加工風景

 

「20年、30年先のことは分からない。が、国や業種の壁を超えてアンテナを張り、分析し、シーズを活用することで新しい展開が見えてくる」と言う三代目社長は、独自の視点で、経済の流れと、あるべきモノづくりの姿を展望する。

 

会社の歴史は常に最先端の技術だった

東鋼工場研削加工現場

株式会社東鋼は切削工具メーカーの老舗だが、現在ではその定評のある技術をベースに航空機や医療の分野にもマーケットを広げつつある。

 

その歴史は古く、同業のOSGの大沢会長がかつて著した「研削琢磨」の中で昭和10年代の切削工具メーカーについてまとめた部分に、寺島商行(現・東京製鋼)とある。

が、初代社長で誠人社長の祖父に当る寺島礼三氏が昭和初期に足利で経営していたのは織物業だった。当時の織物は最新技術の輸出産業で、いわば今の自動車産業のようなものだ。

 

 

ところが礼三氏は1937(昭和12)年に織物を止めて、中国に渡った。詳しい事情は分からないが、3年ぐらいして帰って来ると、1940(昭和15)年に、新橋にあった東京製鋼の取締役営業部長に納まり、自分で寺島商行という会社を設立、総代理店として東京製鋼の製品を全て寺島商行に入れて全国に販売したのである。当時は熱処理が難しいと言われる材料を使った完成バイトで、そのクオリティーは高く評価された。今はセンサーで温度のコントロールができるが、材質によって異なる温度の狭い幅を肉眼で見分ける技術は、当時は最先端のものだったのだ。

 

しかし終戦後、東京製鋼はGHQによって解体されて中断した。

 

1950(昭和25)年から始まった朝鮮動乱で日本の産業が復興する中、「東京製鋼の製品は良かった」という声が市場から上がり、再スタートしたのだが、混乱していた時代のせいか、正確な年代ははっきりしない。が、1954(昭和29)年に株式会社東鋼となって現在に至っている。

 

株式会社東鋼となった翌年の1955(昭和30)年に創業者の礼三氏が没すると、同年、誠人社長の父の敬二氏が25歳で二代目社長に就任した。

 

現社長が就任するのは2007(平成19)年である。が、「その15年以上前から戦略を立てて実質的に会社を引っ張ってきた」(誠人社長)。さらには大学3年の時から東鋼でアルバイトを始め、4年時には関西の協力会社に通い、その後、営業の責任者になっていたというから、実質的な社歴は長い。

 

「親が路線を敷いてくれなかったので、自分の判断で工場に7年いた」と笑った。

 

そして、新社長の就任祝いは断ったという。理由は、社長になったが成果はまだ未知数だから、「祝うかどうかは引退する時に決めてくれ」というもので、代わりに「これまで会社をリードして来た会長と、会社に貢献してくれた社員に感謝する会なら良い」と言って、OBも全員呼んで感謝の会を催したのだった。

 

日本の中小企業の生きる道

株式会社 東鋼/代表取締役寺島誠人氏

寺島社長は借り物ではなく、自分の見方、意見を持っている。産業の空洞化や技術の流出など、現在のモノづくりの現状について訊ねると、「日本人には元々、相手に転げてほしいという願望があるんではないだろうか」という言葉が返って来た。

 

日本が中国を初めとする東南アジアに出始めたのは天安門事件以降のことだが、2000年(平成12年)頃はまだ様子見で、勇気ある会社が出て行く程度。それが、2004年頃から急速に拡大して行くが、「中国のモノづくりが日本のようにできる筈がない」「韓国がいくらガンバッテも日本には追い付けない」という認識だった。つまり、みずから勝ちに行くのではなく、相手がずっこけてくれれば自分は安泰だと高を括っていたが、「現に追付かれている」ことを見ても、「そんな願望を持ってもだめ」というのである。
そして、モノづくりが海外に出て行く理由はグローバル化や人件費、円高、今なら電気の供給など色々あるが、「出て行けている理由の一番はデジタル化」だという。デジタル化が進めば進むほど海外に出やすくなることは、テレビを例にとるとよく分かる。かつて日本は生産国だったが、10年ぐらい前から輸入国になった。それは、マイクロチップにプログラムを入れてはめ込めば出来るからで、やがて自動車もそうなるはずだ。

 

自動車は3万点ぐらいの部品を組み合せて作るが、その一つ一つの精度を積み上げて作る日本の技術は、国民性もあって長けている。が、電気化されて部品が少なくなってデジタル化されれば日本の優位性はなくなり、東南アジアの安い工賃が優位になる。だから、日本が残るとすればその部品の一つ一つの精度を高めるしかないのだ。

 

よく中国や韓国が技術を真似るというが、それはかつて日本もやってきたことで、完成品としての技術は渡してもよい。大事なのは真似の出来ない独自の技術の開発で、一つでもそれを持っている企業は負けないのである。

 

東鋼の生き残る方向性

東鋼ドリル_リーマなど

切削工具メーカーも工作機械メーカーも7、8割は自動車に依存しているのが現状で、リーマンショックで自動車が落ちると、切削工具メーカーも工作機械メーカーも一緒になって落ちて売上が半減し、瞬間風速では三分の一になった。「こうなると笑うしかない。なるようになれ」と、寺島社長は屈託のない笑顔で話す。
さらに、自動車の中でもエンジンとかギアがメインで、それをお互いに取り合っているが、「私は前から危機感を持って考えていた。もし石油が無くなれば、今のような自動車も無くなる。我が社の売り上げの7割を占めているのが自動車で、その実体を検証してみると、売り上げの三分の一がエンジンだった。ということは、石油が枯渇した時点でうちの売り上げの三分の一はなくなる」のだ。

 

その次に多いのがブレーキだった。これもいずれは電気になる。そうなると売上は半減するのである。

 

だとすれば、自動車以外にアンテナを立てる必要がある。それまでマーケットはランチェスター戦略という、マーケットシェア一位を強者とし、二位以下を弱者とする考え方で捉えていたが、「ちょっと待てよ、マーケットはピラミッドではないか。それぞれグレードも属性も異なるから、どの階層を狙えばよいのかを考えないといけないが、それを平面で捕らえて何%と言っても意味がない」と考えたという。が、特殊工具の業界は知らないが、一般の業界では、企業の大きさを表す場合などにシェア何%だから業界何位というが、プロダクトやブランド別にマーチャンダイジングする場合は、ピラミッドの中をセグメントし、さらに属性を分析して絞り込んだ上で展開するのが普通である。

 

それはともかく、寺島社長が自分達のシーズにプラスアルファして違う分野の仕事も引き受けられないかと数年間アンテナを張っていた結果、今から5年くらい前に航空会社や医療関係の会社と取引き出来るようになった。リーマンショックで一時は落ち込んだが、今は、それが売上に貢献するようになったのである。自動車の次のテーマは医療、航空機、難削材の三つだと誰でも分かっていたが、「航空機と医療はお金になるの?」と聞かれるように、敬遠されていた分野だ。しかし、「私は何年も前から危機感を持ってアンテナを張っていたから上手くいったんだと思いますよ」と言う。そして、「これからも我々のシーズを使って、もっと新しいマーケットを狙いたい」と、意欲を見せる。

 

そのためにも「我々はもっと腕を磨き、材質的にも精度的にもさらにハイスペック化しなくてはいけない」と思っているのだ。

 

グローバルな視点で若者を育てる

寺島社長は「幕末の坂本竜馬や勝海舟のように、小さい世界にこだわらず世界を見て大きく構えた仕事をしたい」と言う。20年、30年後に若い世代から「あの時、寺島は何故海外に目を向け進出しなかったのか」と恨まれたくないからである。
海外では、ヨーロッパやアメリカと、東南アジアでは内容を変える必要があると考えられている。今度、ドイツで開かれるメディカという医療関係の見本市に福島県の一員として出展するが、ハイスペック化したものを出す。また、ベトナムの会社からオファーを受けて来月ベトナムに行くが、アジアでは今までの技術を提供すればよいと思っている。

 

10月には韓国の医療関係の展示会に出展するが、そこは新卒の若い者にやらせるのだという。「行って少しでもグローバル化の空気を吸ってくれば良い」のだ。今は映像文化が進歩して、居ながらにしてアマゾンの奥地から宇宙まで様々な分野で疑似体験が出来るが、実体験とは別物である。文久3年(1863)、長州の伊藤俊輔(博文)や志道聞多(井上馨)ら5人がイギリスに密航したのは攘夷の準備のためだったが、志道聞多は上海で攘夷の無意味さを悟り、ロンドンでは全員が開国派になっていた。出国の前に外国の情報は得ていたが、体感を通してガラリと認識が変わったのだった。

 

寺島社長は、「社員に具体的な体験をさせながら、海外戦略と国内戦略、商品戦略を組み合せて今後の展開を考える」のだという。

 

長期の戦略を立てると言っても、将来のことは分からない。「今、私は50歳だが、30歳の時に今のことは予測できなかった」が、一応、将来の目標を持たないと進まないのだ。しかし、メディアの人は

 

「東鋼は他社に比べて方向が明確だと言ってくれるが、他社の事は分からない」とも言う。寺島社長が自立した考えを持っているからだろう。

 

また、「日本のモノづくり」の話になると、円高や政府の無策の話になるが、「私は、いっそ日本を早く行き着くとこまで行かせて潰し、再生させた方が良いと思う」と言い、経営者を替え、債務をゼロにして再生しつつある日本航空や、IMFの管理下に置かれ、逞しくなって再生した韓国の例を上げた。講談のようにすっきりした話し振りである。

しかし、国に更生法は適用されないし、日本の国債の殆どは国内で保有され、日本はIMFの大口出資国だから……。寺島社長は、いつまでも解決策を見出せない政治への苛立ちを表現したものだ。寺島社長は明確なのである。   ■

 

 

<プロフィール>
寺島誠人 (てらしま まこと)…東京都出身。1960(昭和35年)年生まれ。50歳。1983年(昭和58年)、神奈川大学経済学部貿易学科大学卒業。大学3年の時から東鋼でアルバイト。2007(平成19)年、社長に就任。

株式会社東鋼
〒113-0033 東京都文京区本郷5-27-10
TEL 03―3815-5811
URL http://www.toko-tool.co.jp

 

※本記事は158号 2011年10月発売号の掲載記事を基に構成しています。