株式会社浜野製作所 -不撓不屈
燃え落ちる自宅・工場横目に代替工場&機械調達に奔走
信なくば立たず。」
この人の周辺を取材してみてその意味をあらためて考えさせられた。東京の下町、墨田区でレーザー加工やプレス加工、精密板金業を営む浜野製作所の代表取締役、浜野慶一氏である。「町工場にとって何より大切なのは取引先との信頼関係。これに尽きますね」。町工場に限らず世の経営者が時として軽々に?使うこの言葉も、この人が口にすると俄然、重みと信憑性を持つ。なぜか。それを物語る壮絶な〝事件〟とその後の足跡、さらには同社が取り組んでいる話題の産学官連携事業についても、詳しくレポートする。
何を差し置いても納期が最優先
信頼失くしたら町工場はお終い
〝事件〟が起きたのは2000年6月30日の朝、10時半頃だ。事務所の奥のひと角で来客の応対をしていた浜野氏は、
「火事だ!火事だ!」
という突然の怒鳴り声に、思わず立ち上がり、取る物も取り敢えず急いで表に回ったという。見ると後に火元と判明した工事中の隣家がすでに猛火に包まれ、炎は折からの強風に乗り、容赦のない牙をむき出しにして、氏の自宅兼工場を含む近隣各戸にも猛然と襲いかかっていた。
(ダメだ)
もはや手の施しようがないのは誰の目にも明らかである。氏は呆然と立ちすくむしかなかった。
「目の前で起きていることが現実のこととはとても思えなかったですね。何だか夢を見ているようで…」(浜野氏・以下同)
無理もない。幼時から慣れ親しんだ家であり工場である。いや、それより何より北陸の田舎から出てきた今は亡き父と母が、数々の艱難辛苦を乗り越えて、コツコツと築き上げ残してくれた、小さいながらも掛け替えのない根城であり飯の種である。メラメラと燃え上がる炎を前にした氏の頭の中を、それまでのいろいろな思い出が走馬灯のように駆け巡ったという。怒鳴り合うかのような群集の声も、空気を切り裂くように響きわたる消防車のサイレンの音も、おそらく氏の耳には、遠くで微かに鳴っている冷蔵庫のモーター音くらいにしか聞こえなかったに違いあるまい。
しかし氏はここから、常人には考えすら及ばないある意味で〝突飛〟な行動に出る。なんと今にも燃え落ちんとする自宅と工場を横目に、常務取締役の金岡裕之氏を伴い、まずは不動産屋、そして親しくしている地元の町工場、さらには中古機械商に向けて一目散に走ったのである。すぐにも操業できる代替工場を確保し、機械を調達するためだ。周辺の話によると氏が呆然と立ちすくんでいたのはほんの3~4分だったそうで、そのあとは取引先と電話で納期その他の調整をしたかと思うと、瞬く間に飛んで行ったという。
「我に返ってすぐに思ったことは、今抱えている仕事の納期をどうやって守るかということでした。家の中に残してきた貴重品のことや、今夜からの暮らしのことなどの心配もよぎりましたが、それは一瞬のことで、どうすれば明日にも仕事が再開できるかという思案で頭がいっぱいになったんです。だって納期を守れなかったら取引先の信頼を失くすじゃないですか。信頼を失くしたら私たち小さな町工場はお終いですからね」
国を能(よ)く治めるには兵(国の守り)、食(生活の安定)、信(民衆の信頼)が肝要。しかしやむを得ずそのうちのいずれかを手放さねばならなくなったときは、まず兵を手放すがよい。さらにまたひとつ手放さなければならないとなれば、食を手放すべし。信、手放すべからず。言わずもがなだが、これが冒頭の論語の意味するところである。
賠償金交渉相手の倒産、立ち退き要請…
「こんな状況だからたぶん残業代は出せないと思うけど、それでもいいか?」
「何を言ってるんですか。俺は金のためにやってるんじゃないですよ」
焼け跡から掘り出した2000個以上もの金型の錆びと煤を、徹夜でゴシゴシと一心に落とし続けながら交わした、氏と金岡氏のやり取りである。
「さすがにあのときばかりは、涙を禁じ得ませんでした」
心底うれしいという思いと、弥(いや)が上にも湧き立つ勇気に震えが止まらなかったと、氏は昨日のことのように振り返る。
試練はしかし、まだ続く。
火元の工事を請け負っていた賠償金の交渉相手である建築業者が、突如倒産し、会社更生法の適用を受けたのである。さらに追い討ちをかけるようにやってきたのが、工場跡地の立ち退き要請だ。ちなみに急場しのぎのつもりで借りた代替工場の家賃は、月70万円にも上る。当時は従業員数わずか3人の文字通り零細企業である。やっていける道理はない。普通なら途方に暮れるか投げ出して勤め人にでも転身するところ、といっていいだろう。
危機突破 問題はその描いた〝絵〟の通りに行動する勇気と気迫があるや否か
話が前後するようで恐縮だが、ここで浜野製作所の生い立ちと貰い火に遭うまでの軌跡を、簡単にだがなぞっておきたい。氏が焼け跡からどのようにして立ち上がったか。その秘密が、より腑に落ちると思うからだ。
創業(1967年)者は実父・嘉彦氏。場所は現在の所在地にも近い、東京墨田区の八広だ。前述したが嘉彦氏は北陸から上京、コツコツと自らの地歩を固めてきたところをみると、おそらく実直を絵に描いたような人なのだろう。数こそ少ない(4~5社)が、大口の顧客企業としっかり信頼関係を結び、堅実経営に徹していたようで、創業から30年余の間には、善くも悪くもとくに話題らしき話題は見あたらない。
しかし商工業界は生き物である。常に変化を遂げている。企業はその変化の中から逐次転機を見出し、経営改革や技術革新、ときにはそれまでの蓄積や経験則を惜しみなく捨てて、大胆に変貌する必要さえ生まれる。同社にその転機が訪れたのは、慶一氏が継承(1993年)して5~6年も経った頃だという。
「それでなくても市場がシュリンクして受注が難しいのに、安い中国産の製品がどんどん入ってくるし単価も下がる一方です。これでは倒産するのを待つだけだぞと、強い危機感を持ちました」
そこで氏が打ち出した改革が、創業以来続けてきた少品種多量生産路線から、多くの多様な顧客を対象とした、多品種少量生産も可能な総合板金工場への、大胆な方針転換である。さまざまなニーズに対応した精密板金機械やレーザー加工などの最先端機械を導入し、新たに土地を求めて、試作品工場まで新築するという壮大な計画だ。計画はただちに行動に移された。機械メーカーの視察、工場設計、用地買収、資金調達、行政との折衝などなど…である。
計画は順調にスタートした、かに見えたそのときにやってきたのが、あの2000年6月30日というわけだ。
その後の経緯は言うまでもないだろう。次に並べる規模、業績などの推移から、それぞれ自由にご想像いただきたい。
驚くなかれ、である。火事から7年後の2007年には、従業員数と売上高はほぼ10倍! 顧客企業の数は50倍以上! 今年度に至っては実に100倍(480社)!である。もはやV字回復なんてレベルではない。文字通り破竹の勢いなのだ。
ちなみに火災から3年後には墨田区の「フレッシュ夢工場」のモデル工場に認定。その2年後には「すみだが元気になるものづくり企業大賞」を受賞。さらに2年後には東京商工会議所の「勇気ある経営大賞優秀賞」など数々の賞に輝いており、すでに5年ほど前からは、産学官連携によるEV(電気自動車)開発=別掲=や環境PRなど、社会事業にも積極的に取り組んでいるのだ。
それにしてもこの不況時に、しかも家・工場が焼けてドン底まで落ちたというのに、どうしてそこまで成し得たのか。ひとつはやはり徹底した〝信なくば…〟精神であろう。取引先はもちろん、双方を取材してみて分かったが、これは金岡氏との人間関係にもはっきりと見て取れる。
今ひとつは類い稀な行動力だ。危機は誰にもどの企業にも訪れる。それを突破するための〝絵〟も、描こうと思えば誰にだって描ける。問題は万難を排して、その絵の通りに行動する勇気と気迫があるや否やだ。浜野氏と浜野氏率いる同社には、それらがしっかり備わっていたということだろう。
不撓不屈、というほかない。
環境PRに次世代モビリティ開発
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浜野慶一(はまの・けいいち)氏
1962年、東京都墨田区生まれ。1984年、東海大学政治経済学部卒業と同時に、都内板橋区の部品メーカー入社。父・嘉彦氏の逝去を機に約8年間の勤務を終え、29歳で浜野製作所代表取締役に就任。東京商工会議所墨田支部工業分科会会長、墨田区産業振興会議委員、墨田区環境審議会委員ほか公職多数。妻と3人の子供との5人家族。
株式会社浜野製作所
〒131・0041 東京都墨田区八広4・39・7
℡ 03(5631)9111