ものづくり経営者たちよ、切削加工の若き雄が描く
「中小製造業の未来」から目を背けるな!

有限会社丸野工業 代表取締役社長 海野将寿氏

 

―物心がつく前から切削加工を営む父の背中を見て育ち、自身も20年近く製造業一筋で生きてきた、根っからの〝ものづくり〟しかも、自社を構えるのは企業城下町、茨城・日立市―。まず、この条件だけを聞いて、今回出会った経営者がどのような人物かを想像してみてほしい。おそらく、最高の意味で期待を裏切る結果となるはずだ!

 

企業城下町、日立で出会った経営者

―まさか、この地でこのような人物と出会えるとは!―

それが今回、筆者が抱いた率直な感想だった。

訪れたのは茨城・日立市。同市は周知の通り、県内の中核都市であり総合電機メーカー、日立製作所の創業地である。さらに、今年3月に起きた東日本大震災による影響も決して小さくなかったことは、言わずもがな。

おそらく、この度の震災は日立市の中小製造業にとって寝耳に水の大打撃であったろう。多かれ少なかれ、被害を受けた企業が大多数。いくら日本の中小企業、特にバブル崩壊やリーマン・ショックを経験した製造業の底力が計り知れないとはいえ、実際に現地を見るまでは「未曾有の自然災害の発生から、ほんの数カ月経った程度では……」と、つい暗い考えがよぎってしまった。

だが話す前に撤回しておこう。ここ、日立市は強い。余計な危惧は無用だった。

当然、関東地方の他の地区と同様、節電は課されているため、業務にも支障は出ている。にもかかわらず、土地全体から溢れ出る〝ものづくり〟の心。真の意味での復興とは違えども、町中から活気を感じられる。「これが、約半世紀にも及ぶ〝企業城下町〟の誇りか」、そう思わずにはいられなかった。

ところが、本当に驚愕したのは目的地、有限会社丸野工業に到着してからだ。

「当社も、一部に被害が出ましたよ。自粛や節電による営業制限などではなく、震災そのもので設備が壊れてしまったのです。ですから、できれば新しい機械が揃ったところで社内をご覧いただきたかったですね」

その経営者はまるで落胆する様子もなく淡々とそう話し、さらに「当社の創業者でもある父が先月、長期にわたる闘病の末に亡くなったので、今年前半は本当にいろいろなことがありました」と、追い打ちをかけるような悲劇を、悲観するでもなくさらりとした口調で告げた。

だが、誤解しないでいただきたい。それは決して、「冷たい」という意味ではない。実際に会ってまず伝わったのは人としての底知れぬ強さだった。そして、言動の落ち着き様はいかに先を見据えて行動しているかの証拠であろう。

そう、それが切削加工を営む丸野工業の若き2代目代表取締役社長、海野将寿氏なのだ。

 

根っからの〝ものづくり〟でありながら

海野氏は、良い意味で期待を裏切る「一風、変わったものづくり経営者」である。まず驚くのは、その人脈と視野の広さだ。

しかし、「いろいろな人とコミュニケーションを図ることは大事」と言う反面、「同分野の製造業の方よりも、異業種を営む人々と会う機会のほうが圧倒的に多い」と言い切る。

元来、職人は「孤独」といったイメージがある一方、製造業を営む者同士は横のつながりが重要であるとされてきた。

中小製造業は、一社で「一つのもの」をつくり上げるわけではない。特に日立市のような企業城下町においては、ひらたくいえば「下請け」同士であることが多いため、情報の交換などだけではなく「仕事が回りきらない」などの際に、人手を提供したり、仕事を分担して助け合ってきた。

同氏は「決して、あえて連絡を絶っているわけではないのです」と苦笑しつつ、次のように説明してくれた。

「一言でいえば、この国に数ある業界のなかで製造業の情報伝達スピードは群を抜いて遅いため、そのなかだけでコミュニティをつくると時代についていけないのです」

その言葉の真意を理解するためにも、まず海野氏の人となりを簡単に知っておこう。

同氏が経営者になったのは、32歳のとき。早くして勇退した父の跡を継ぎ、家業を任されたのだ。それがいまから7年前なので、現在、まだ39歳である。

「もともと当社、丸野工業は私が入社した17年ほど前から、業界内でも他社がさじを投げるような難しい仕事、面倒な依頼を積極的に受注するようにしてきました。当然、それに対応できる機械も導入して……。そのため、当時から取引先には『駆け込み寺』扱いを受けていたのです。それ以前も茨城職業訓練短期大学校で学び、他社でも現場で働いていましたし、32歳の時点で生意気と思われるでしょうが、それなりに技術と知識にはある程度の自信を抱いていたのですよ」

面倒な依頼を好む理由を「難易度の低い依頼だけでは稼ぐことはできないから」と言いつつ、「難題をクリアすることに、ものづくりとしてのやりがいを感じる」と話す。

それは、海野氏が筆者に初めて見せた「職人」の顔であった。

 

東京に学びの場を求めて

「製造業を任された上で絶対の条件、『技術』はクリア。となれば、次は『経営』を学ぼうと思いますよね」

自身がそう振り返るように、海野氏は「経営」を学ぶべく行動を始めた。さしあたりビジネス本を読み、お決まりの「企業家向けのセミナー」にもいくつか参加。何かを学び取ろうとしたが、そこで得たものは「これは、役に立たない」という結論であった。

おそらく、多くの経営者は「セミナーに出席した」ことだけで満足してしまうだろう。あるいは海野氏同様、「どうしたらいいだろう」とまで考えても、明確な答えは出せないはずだ。

しかし、同氏は違った。

「何もしなければ『学び』は得られない。ならば、東京に出て学んでみよう。実際に尊敬できる人に出会い、教えを請えばいいのだ」

そうして文字通りあっという間に、自分の進むべき道を見出した。

 

「IT関係やベンチャー企業の経営者から話を聞き、お酒を飲み交わすことは本当に貴重だし勉強になります。何しろ、IT関係はビジネスサイクルが目まぐるしい。それを牽引し、自らの手で『ブーム』をつくるような人間と接することはものすごい刺激です」

海野氏が交流をもったグループのなかには、いわゆる「財界の大物」と呼ばれた人物もいる。しかし同氏はそれを鼻にかけることもなく、飄々と話す。

それどころか、「やはり、そういう人種は年齢や性別、経験値など関係なく頭が良い。とんでもなく視野が広く、未来が見えているといった印象でした。ただし、自分が『分かりすぎている』せいで、普通の人々にそれをうまく説明できないのでしょう。だから彼らの周りにいる、いわばブレーン的な役割を担う人たちこそ、本当に『できる人間』なのだと思いました」と、冷静に分析する。

 

古き良き製造業、果たしてそれでいいのか

 

「製造業は歴史が古く、技術革新が起きても中小企業にはあまり影響がありません。つまり、自分から動かないとIT分野のように『未来の風』を感じることもなく、同時に焦りを覚えることもない。ですが本当に、それでいいのでしょうか。そんな考え方で、この先も生き残れるのでしょうか。いくら高い技術があっても、何もしないでいると、ふとした油断から時代に翻弄され、気付かない間に流されてしまうかもしれません」

 

海野氏は厳しい口調で業界に警鐘を鳴らす。それが、前述で「製造業の情報伝達スピード」について言及したことの意味だ。

実際、同氏は地元の青年会議所が主催する地域未来室委員会でも委員として名を連ねており、その危惧をより多くの若手経営者に広めようと努めている。

 

「『地方だから、都会とは違うから情報が手に入りにくい』。それは言い訳です。人脈をつくり、コミュニケーションを図ることができればいくらでも最先端の流行やマーケットを知ることができる。特にインターネットなどの媒体を通してではなく、実際に目で見て、耳で聞くというアナログな方法で仕入れることが大切です」

 

それを筆者もすべてのものづくり経営者に分かってほしい。

中小製造業にありがちなのが、技術に自信があるゆえの過信。「良い仕事をすれば、廃れることはない」。だが、そんな考えが通るほどいまの日本は甘くない。そのことに、早く気づかなければならない。

あるいは最近よく見られる、「下請けだけではなく、自社製品をつくろう」と意気込む若手経営者にも「きちんとマーケティングを行い、ニーズを把握しなければ、いくら性能が良くてもただの自己満足に終わってしまう」と海野氏は厳しく指摘する。

 

そんな同氏の次なる目標は、「人材育成」である。

「私自身は、企業を大きくしたいといった欲はないのです。ただ製造業を廃れさせたくない。そのためには良い人材を育て、若い人たちに伸びていってもらいたい。いまはこれまでの経験を駆使し、新たな事業でその夢を叶えたいと思っています」

それが、スタートしたばかりの新規ビジネス、「委託事業プラン」である。

 

「一言でいえば起業を目指す事業主が、中小製造業から機械、あるいは工場などの生産資源を提供してもらい、同時に生産プロセスを委託されて、『サラリーマン経営者』になるというシステムです」

「起業家をめざしたい」といっても、製造業を一から始めることは難しい。だが、このシステムを活用すれば資本がなくとも「経営」をすることができるのだ。これこそ、新しいものづくりのカタチの一つだ。

 

「人と同じことはしたくないので、これからもどんどん開拓していきたいですね」

これもまた、ものづくり経営者には耳の痛い話であろう。

掴みどころがないように見えて、常に先を見据えている。「謙虚に学ぶ姿勢」を持ちながら、ものの良し悪しはきちんと見定めている。そんな同氏から、経営者にとって大切なことを教えられた気がした。

今回は、久しぶりに10年後が楽しみな企業に出会えた。30歳代という年齢からも、海野氏、丸野工業への今後にはますます期待が高まる。

 

 

海野 将寿氏

1972年、茨城県生まれ。1991年、地元の高校を卒業後、茨城職業訓練短期大学校に入学。卒業後、家業の取引先であった加工メーカーに入社し、技術を学ぶ。23歳で丸野工業に戻り、2003年に代表取締役社長に就任し、現在に至る。

 

有限会社丸野工業

〒319-1231 茨城県日立市留町1190-5

TEL 0294-53-6244