足るを知る、とは実はこういうことを言うのかも知れない。

この5月、厚板精密板金業の草分け、富田製作所の3代目社長に就任した富田修氏のスタンスである。

周囲の反対を強引に押し切り、後に社業繁栄の礎となる、世界最大級の設備を導入した今は亡き立志伝中の創業者。のし掛かる大借金に疲弊した社業を、全従業員の気概と結束力を引き出してダイナミックに立て直した現会長の二代目敏腕トップ。野望、またはバイタリティといった意味でこのお二人とはあまりに対照的だが、それでいて察するにめっぽうポジティブなリーダーなのだ。まずは氏と筆者のやり取りから、その中身をじっくりと玩味いただこう。

 

厚板精密板金のリーディングカンパニー  株式会社富田製作所 代表取締役社長 富田修氏

 

従業員が気持ち良く働くと生産性は二割アップ!?

 

――一般的にいうと、モノづくり企業にとって経営環境のたいへん厳しい中で社長に就任されたわけですが、今後どのようにやっていくお気持ちでいるのか、胸のうちをお聞かせください。

富田「モノづくり企業にとって経営環境が厳しいというのは…、ま、ある意味でそうかも知れませんが、かといってあまり悲観することはないし、とくに肩肘を張ることもないと私は思っているんですよ。どっちにしても情報とか通信といったソフト産業のような伸びシロが今後あるわけではないですしね。それより何より、工場というのは仕事さえ回ってくれば何とかなるし、何とかなっていれば仕事は回ってくるものですよ。きちんとそれなりの設備と技術と体制があって、とくに欲張ったり高望みをしなければですけどね。要は着実に誠意を持ってやっていくことだ、と私は思っています。これは富田家の家訓でもありますが、そのためには従業員を大切にし、気持ち良く働いてもらうことですよ。それだけで生産性も2割はアップしますしね」

 

「不毛な競争には巻き込まれません」世界最大級の1万トンプレスで独自路線

 

――そうは言っても日本のモノづくりは、長引く不況にくわえて中国などローコスト国からの攻勢にさらされており、いきおい価格競争、過当競争に陥っているのが現状です。どうやってこれを凌ぎ、勝ち抜いていくお考えですか?

富田「凌ぐも何も、そういう不毛な競争には巻き込まれない独自の路線を取っています。私どもは、私どもだからこそできる仕事に専念してきちんとやっていくということです。たとえば材料の鉄鋼まで含めて注文されるお客さまがいるとしますね。その場合、鉄鋼は商社から調達したほうが安くつきますよ、と教えてあげるんです。そのほうが親切ですし、私どもとしても余計な手間や人件費をかけないで済みますからね。それを欲張って材料まで受けるとなると、売上は増えても自ずと価格競争に巻き込まれるじゃないですか。しかもその売上は銀行向けの単なる〝カサ〟でしかありませんしね。このことをしっかりわきまえてやっていけば、ローコスト国からの攻勢も、同業他社との競争も、さほど脅威ではないと思っているんですよ」

 

――とすると要らぬお節介ですが、売上はほとんどが工賃というか加工料?

富田「いえ。売上高の約半分は小松製作所様からの注文で、そちらは材料持ちです」

 

――要するに小松製作所の協力企業としての下請業と、建設業や製造業などから受注する材料持ち込みの加工業が社業の二本柱というわけですね。するとこれまた要らぬお節介ですが、小松製作所がメインの注文主となると、例のリーマンショック以降はたいへんな苦労をなさったんじゃないですか?

富田「そうですね。あちらが一時ドンと落ち込みましたから。でもお陰さまで、一方では材料持ち込みのお客さまがけっこうありましたから、全体としての落ち込みは最小限に済ませることができました」

 

――なるほど。その辺りが、よくある大企業に丸ごと依存した旧来のモノづくり中小企業との違いですね。ところで話は戻りますが、就任にあたって、これだけはやりたいと思ったことで実際にやったことは何かありますか?

富田「とくにありませんが、敢えて言えば挨拶の励行ですかね。だって気持ち良いじゃないですか。社内に礼儀正しい挨拶の声が飛び交っていると」

 

余談ながら筆者のこれまでの長い取材経験からいうと、就任して間もない社長は、程度の差こそあれ善くも悪くも〝大言壮語〟するものである。ところがこの富田氏にはそれがまるでないのだ。しかも…。

 

――また一般論で恐縮ですが、今回の取材にあたってそれなりに貴社の情報を集めてみたところ、創業者がいわゆる立志伝中の人物で、二代目は中興の祖とも言うべき、いわば名将ですね。無礼を承知で訊くのですが、普通こういったケースの三代目は、その人たちの功績にただ乗っかっているだけというパターンが少なくないと思います。その辺りをご自身ではどうお考えですか?

富田「当たっていると思いますよ、それ(笑)」

――(!)

 

一見、自虐ネタにも聞こえるその言葉の背景にはいったい何があるのか。ちなみに誤解のないよう申し置くが、そう言った氏の表情や目の色には寸分の曇りもない。

ここで同社のこれまでの歩みと、現在の体制などについて、詳しく述べておきたい。

 

創業者は立志伝中の人物。二代目は中興の祖、三代目は…

 

創業は1951年。石川県から文字通り裸一貫で上京した故・富田大八郎氏が、長い職人修行を経て始めた、言うところの町の板金屋さんである。しかしただの板金屋さんではない。ひと言でいうと、夢と向上心に満ち満ちた、当時としてはきわめて珍しいアグレッシブな板金事業家だ。口癖のように言っていた言葉が「世界一の板金屋になる」。

これが単なる大風呂敷ならよくあるお笑いネタだが、実際、そのための道を一心不乱に邁進するから並の人物ではない。創業から僅か5年後(1956年)には法人化を果たし、その資本金が300万円だという。ちなみに同年の大卒銀行員の初任給は5600円である。その後も大八郎氏は、最先端の高度で高価な機械や設備を次々と導入し、千葉県松戸市、さらには茨城県古河市に工場を新設、増設するなどますますの事業拡大に乗り出す。日の出の勢いというほかない。

 

世界一の板金屋になる!最先端の機械・設備を次々導入

 

しかし何といっても圧巻は1983年。今日でも世界最大級とされ、東日本では随一の能力を誇る1万トン油圧プレス機の導入(古河工場)である。筆者も実際に目の前にして見たが恐ろしく巨大、ちょっとした航空母艦だ。

 

「当時はとくにその機械が必要だったわけではありません。現に導入してもしばらくは遊ばせていましたから」

 

ではなぜ導入したか。大八郎氏の例の夢である。

 

「世界一になるには世界一の設備を入れなければダメだと言って、役員も従業員も全員が反対するのを押し切ったんです。でも先見の明というか、胸のうちではハッキリと将来を見据えていたんでしょうね。結果的にこれが私どもの独自路線につながる一大転機になりましたから」

 

察するにおそらく、建設・製造業の高技術化によって新たな需要が生まれ、気が付いたら事業の柱という意味でも、心の拠り所という意味でも、文字通り社の航空母艦になっていたということなのだろう。

 

「もう一つの転機が、15年前のつくば工場竣工でした」

 

5000トン、2000トンの油圧プレス機から最先端の6kwレーザー切断機、自動ガウジング装置、5面加工機などを揃えた掛け値なしの超近代プレス工場である。これによって材料の切断から製品化までの一貫加工が可能になり、高品質、短納期、低コストでサービスを提供できる体制が整ったというわけだ。

しかし好事魔多し。竣工の二週間前に大八郎氏が逝去し、20億円もの大借金を、先代社長の富田大治郎氏(現会長)ら遺族が負うことになったのである。

 

「それからは必死でしたね。兄(大治郎氏)も、私も、従業員たちも」

 

全従業員が心一つに

 

そこで威力を発揮したのが大治郎氏の強いリーダーシップだったようで、全従業員が心を一つにして再建に取り組んだという。

 

「これをご覧ください」

 

氏が見せてくれたのは企業理念や経営方針について書かれた一枚の書類だ。五箇条からなるその中で筆者が注目したのは、次のくだりである。

 

「…社員相互に和をもって交わり、社運の繁栄とともに社員の幸福を願い…」

「…常に健康に留意し、会社安全、家庭楽園にて楽しい人生を送るよう…」

 

これらの根底に流れているのが、創業以来同社に伝わる〝拝の精神〟だそうだ。謹みの心、敬いの心、感謝の心だ。これと前述した富田家の家訓、身の丈をわきまえた受注の仕方などを併せもって、再度玩味いただきたい。

 

「それらをまとめた気風が、私どもの企業風土なのです」

 

要するに氏の経営スタンスは、その企業風土を自ら率先して体現している一つの形というわけだ。これをポジティブといわずして何をポジティブといおう。

お察しいただけただろうか。冒頭に、足るを知る…と書いたワケが。

 

 

富田修氏(とみた おさむ)

1959年、東京都生まれ。1983年、専修大学商学部卒業。同年から2年間、小松インターナショナル製造に勤務後、富田製作所に入社。1999年、取締役。その後、常務取締役、副社長を経て、2011年5月、代表取締役社長に就任。

 

株式会社富田製作所 

【古河工場】

〒306-0206 茨城県古河市丘里11番地

TEL 0280-98-3377

 

【つくば工場】

〒304-0004 茨城県下妻市大木字上原1333番地

TEL 0296-44-7311

 

【本社】

〒271-0064 千葉県松戸市上本郷173番地