深中メッキ工業株式会社 知らないからこそできたこと
「まさか」で業界に飛び込んだ、メッキ加工3代目の思い
日本の中小製造業の場合、その大多数が家族経営である。子は親を見て育ち、やがていつしか「後継者」としての自覚を抱く。そして工業や化学など、それ相応の勉強ができる進路を選ぶ。それが、ごく自然な流れである。だが、今回訪ねた経営者は違った。「継ぐ気などまったくなく、勉強してきたことも前職もモノづくりとは無関係」と言って笑う。しかし彼はそれでも、いや、むしろ「だからこそ成功する例」があることを教えてくれた。
代表取締役就任時は、リーマン・ショックのころ
10月20日、日本銀行は支店長会議を開催した。そこでまとめられた支店等地域経済担当部署からの報告は「さくらレポート」と呼ばれている。名前の由来はいたって単純。報告書の表紙が、「さくら色」であるというだけのことである。
だが、今回はその名にふさわしく少しは春の訪れを感じるような結果が得られた。全体としては「やや持ち直し方向にある」とのこと。これは「海外経済減速などの影響が生産活動の一部にみられ始めている」と不安視する意見もありつつ、東日本大震災の影響は徐々に薄れてきているといった見方が強いためだ。
特に同震災の被災地である東北、関東甲信越地域でそういった報告がなされたのだから、ひとまず安心するのはおそらく楽観的すぎるわけではない。
しかし、そうはいってもこれはあくまで「日本銀行」の視点。実際の景気状況、特に大きく影響を受ける可能性が高い中小製造業の経営者は、現状をどう見ているのだろう。
「これまでで『大変だった』と思ったのは私が入社したころと、リーマン・ショックの時期。ちょうどそのときに3代目となったので、あれはいまでも忘れられません。ですから、いまはそれに比べれば……、と思えますね。最初に最悪の状態を経験したからこそ、そう言えるのかもしれませんが」
そう答えてくれたのは、東京・墨田区、下町でメッキ加工業を営む深中メッキ工業株式会社の3代目、深田稔氏だ。
同氏が家業を継いだのは、いまから約3年前。自ら話すように、米大手証券、リーマンブラザーズの経営破たんを発端に起きた世界規模での不況、いわゆるリーマン・ショックが勃発した時期であった。
当然のことながら、同時期に打撃を受けたのは何も同社だけではない。その爪痕は大きかった。倒産に追い込まれた中小企業も多々あり、大手のなかにもいまもなお、当時の痛手を払しょくできていない企業があるほどである。
ところが深田氏が入社したころは、それに匹敵する危機であったという。一体、何があったと言うのだろう。
父の病が転機となって
それは、1991年のことだった。
「創業者でもある私の父親が突然、病で倒れたのです。言葉通り、ピンチ以外の何ものでもありませんでした」
深中メッキ工業の創業は1953年。創業者深中直弘氏は以来、約40年間にわたり同社をけん引していたという。それまでは中小企業にありがちな、「社長ありきの経営」をしてきた。皮肉にも深中メッキは直弘氏が倒れたことによって初めて、その事実をまざまざと突きつけられることになった。
「最悪の経営難の到来。それまで当社が仕事を受けていた部品メーカーがこぞって、メッキ加工を安く仕上げられる海外に発注するようになった矢先のことでした。まだ家業に入っていない私にも、いかに大変な事態であるかが痛いほど感じられましたね」
突如船頭を失った船は、当然のごとく途端にバランスを崩してしまったのだ。
「従業員たちが住んでいた社宅が、昔から工場敷地内にあったのです。だから私にとって、『工場』は家と同じ、『職人』は家族と同じ。幼いころから、そう刷り込まれていました」
そのころの深田氏は、ごく普通のサラリーマンであった。従業員は家族同然とはいえ、次男だったことから「まさか自分が後を継ぐこともない」と考えていたのだ。
「好き勝手をしてきたつもりはありませんでしたが、『自分と家業は関係ない』と思っていたのです」
そう振り返るように、大学でも経済学を専攻し、就職した先は大手メーカー明治製菓(現明治)。メッキとはまったく無関係な道を歩んできた――が、にもかかわらず、思いがけない父の病によって同氏の心は大きく揺り動かされる。
「従業員を路頭に迷わせてはいけない、その気持ちだけでしたね」と同氏が話すように、安定した地位を捨てて、深中メッキ工業への入社を決意した。
「知らない」は、「恥ずかしい」ではない
入社当初は、経営を立て直すどころではなかった。
「まったくの素人ですから、とにかくメッキを基礎から学ぶことを始めました」
通信教育の教材で材料工学を学ぶことからスタートし、昼間は工場内で従業員たちから実務の指導を受けた。
それは深田氏が、「子供同然ですから、『学ぶこと』に恥ずかしさや気まずさはありませんでした」という素直な性格だったからこそ成し得たことである。だが、「子供同然」であるからこそ、疑問も次々と溢れ出ていった。
「セオリーを知らないので、『なぜ、こうできないのか』といったナゾがどんどん浮かんでくるのです。困った性格で、それを解決しないと先に進めないのですよね。結果として、そこから新たな技術開発へと進むこともありましたが……」
その一つが、リチウム電池のフタのメッキを依頼されたときのことだ。
「そのころ、リチウム電池のフタのメッキには『部位によってメッキ金属の皮膜の厚さが異なり、フタと電池本体の隙間から電池の液が漏れてしまう危険性がある』との問題がありました」
通常はコストを考えて電気メッキという手法をとるのだが、「その方法では電気の量により、場所によってメッキ金属の接着の厚みに違いが出てしまうのです。長方形の場合だと角には厚く、そのほかは薄くつく、といったように」と同氏。
従業員たちは、「均等にすることは不可能だ」と諦めかけていたが、深田氏はメッキの溶液に混ぜる化学物質や回転速度、電圧の強弱を調整すれば可能ではないかと考え、「それを基本にメッキ装置を開発することで達成できたのです」と話す。ただ考えるだけでなく、見事にそれを実現してしまったというのだから驚く。
「高い技術力や知識があると、『これはダメだ、できない』といった判断もすぐに下してしまう。私にはそれがなかったから、『とりあえず、やってみよう』と思えたのです。そのスタンスは、いまでも変わりませんね」
継ぐつもりはなかった。だから、「創業時の経緯なども、父から聞いたためしがない」と苦笑する。だが、その身体にはしっかりと“モノづくりの魂”が宿っていたのだ。
深田氏にそう伝えると、照れたように答えてくれた。
「技術力では足りない部分もまだまだありますが、最近では、この『知らない』こそが自分の強みであると思っています」
大切なのは「従業員」。
モノづくりは人づくりである
やがて深中メッキ工業は深田氏の母、昭子氏が一時期代表を務めた後、深田氏が3代目代表取締役に就任。まさに、「まさか」の展開であったようだ。
そんな同氏の最大の強みは、前述のように「知らない」ゆえの、「諦めない」。だが、この「知らない」は、いまや「無知」ではなく、「限界を知らない」ことを意味する。
「メッキ加工も海外に委託されることが多くなっていますが、『まねできないこと』を生み出せば絶対に需要は消えないのです。そこには、日本人が守り通してきた匠の技術と新たな発想が必要。私たち、深中メッキ工業にはその両方があるのです」
実は、技術的な評判は直弘氏のころよりもむしろ現在のほうが高い。技術が向上したのではなく、そこには深田氏が大手メーカーにいた経験が生かされているのだ。それは、同氏が入社して以降、中小企業には悩みの種である「営業」に強くなったため、である。
「とはいえ、以前の勤め先であれば名刺一つで話が通じたものですが、いまは説明だけではなく、実績を見せないとなかなか話を聞いてもらうこともできません。それでも、『諦めない』を貫くことで新たな取引先をつくれるのです」
さらに、中小企業ではめずらしい本格的な社員教育を行っていることにも注目したい。
「例えば『誰かと合わない』『この業務が苦手』という社員がいた場合、大企業であれば『異動』が可能ですが、中小企業にはそれができない。そう考えれば、社員教育が必要なのは大手よりもむしろ中小規模の工場なのですよ」
その先にあるものは、「社員の幸せ」だ。企業は、社員ありき。それはトヨタの副社長を務めた大野耐一氏の言葉、「モノづくりは人づくり」にも通じるものがある。まさに、モノづくりの真髄といえよう。
「大げさなことではなく、もともと入社したきっかけも『従業員を路頭に迷わせたくない』との思いからでした。極端な話、皆を守るためならば業務を鞍替えすることさえ視野に入れていますよ。父が生きていたら、なんと言うか分かりませんが」
同氏は最後に、そう微笑んでしめくくった。
日本のモノづくりを守ってきたのは、匠の技をもつ「職人」だ。それを守ろうとする深田氏。同氏のような人物には、期待を抱かずにはいられない。■
深田稔(ふかだ・みのる)氏
1964年、東京都生まれ。1987年、獨協大学経済学部を卒業後、明治製菓(現明治)に入社。営業職に従事し、マネージメント能力等を培う。約3年後に家業である深田メッキ工業に入社。2008年に同社3代目の代表取締役に就任し、現在に至る。
深中メッキ工業株式会社
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