オビ 企業物語1 (2)

『いつも土壇場、つねに修羅場、まさに正念場』

ぱど倉橋泰氏インタビュー・【第4回】 MBO、そして上場

◆取材:加藤俊 /文:渡辺友樹

 

株式会社ぱど 倉橋泰氏 (3)

 

本連載は、新生ぱどの紹介を皮切りに創業者の倉橋泰会長が「ぱど」に捧げてきた激動の半生をオーラル・ヒストリーとして記録したものである。

第1回はこちら 『ぱど倉橋泰氏インタビュー・紙媒体の未来 「紙でSEOをやる」とは?』

第2回はこちら『製造業から生まれたフリーペーパー ぱど創業秘話』

第3回はこちら『大赤字でのスタート』

 

事業存続の危機

 ―MBOに至った経緯は?

 

株式会社ぱど 倉橋泰氏 (2)ぱどをOKしてくれた荏原の社長は、翌年に亡くなってしまったんです。亡くなられて、その当時常務だった方が社長になって、ぼくのメンターの副社長は会長に祀り上がった。一番年上だったから。

で、新社長体制になったときは何も言われなかったんですけど、任期途中で社長になったから、役員は前社長が任命した人たちです。だから2年後にガラリと体制が変わって、そのとき「ぱどなんかやめちまえ」と言われたんです。

 

―役員が新体制になって、「ぱど」が危機に陥ってしまったと。

 

昔は円高不況で大変やったんだけど、日本の企業ってすごく強くて、あの円高の中でも利益を出せるようになったとか、ほんとに2、3年で景気が変わっていきました。

その当時どうだったかというと、景気はいいんだけど人は取れない。コンピューター社会となってきてSEが全然足りなくて、文系の人もSEになる。技術系の優秀なやつらを銀行とか商社とかが高い給与で引っ張っていくもんだから、いい人が取れなくなったんです。

 

そこで新社長がどうしたかというと、「選択と集中」というのをやった。要するにあんまり利益の出ないようなところは売却したりひっつけたりして、いい人材を集めていくということです。

そうすると、いちばん関係ないのはうちですよね。「お前らそれ売っぱらって帰って来い」って言われたんですよ。

そうはいかないんで、人事の先輩にね、仲の良い酒飲み友だちだった先輩に社長の家教えてくれと。直談判に行くからって社長の家を聞き出して。実際行ったんですけど、その先輩がやっぱりちょっとまずかったかなと思い直して、倉橋が行くかも知れませんって話していたんです。

それで、その土曜日に社長の家まで車で行って。そうするともう居留守を使われるんですよ。でもずっと待ったんです。昼から。そうしたら、だんだん日も暮れて夕方になって、さすがにまずいなと思い始めたところで、女性が女の子を連れて帰ってきて。「おじいちゃんただいま」って。

おおこれはチャンスやと思ってその二人の後ろにピッと付いていったら、出迎えた社長と目と目が合った。

 

―やっぱり居留守だったんですね(笑い)。

 

しょうがねえな上がれって言われて。ちょうど晩飯前だったから、社長はお腹減ってたんでしょうね。この嫌なやつを早く帰さなあかんと。で、話しました。結局お前はパラシュート部隊で全然わからん敵陣に降りていって一人で頑張ってますと言うけど、そんなんうちからも何も補給してやれないし、荏原は40%の株主やったんですけど、もう運転席は降りると。「選択と集中」でやるから、出資者を探して来いと、なりました。そこでまたまた株主探しに走り回るわけですよ。

 

 

1992年、MBO(マネジメント・バイ・アウト)により独立

―また株主を探さなくてはなりません。

 

いろいろな会社が興味を持ってくれたんですけど、決まりそうで決まらないままズルズル時間が経ってしまって。また次の役員改選のときに社長に呼び出されて、お前何やってんだと。いや、いいとこまで行くんですけど、累積赤字が大きいから、債務超過の会社やからどこも買ってもらえませんと。

最終的にそのときの債務超過3億5000万円、荏原にケツ持ってもらったんですね。わかった、じゃあその債務は荏原と印刷会社で研究開発費という名目で取ってやるから売ってこいと。それなら売れますと売りに行くんですけど、やっぱりなかなか理解してもらえなくて。

理解を示してくれたのはうちのフランチャイズをやってくれていた大阪ガスさん。あとは印刷をやってくれていた会社とかが興味持ってくれて。結局は大阪ガスの子会社さんで、うちのフランチャイズやってくれた会社の社長さんが「倉橋さん、そんなの自分で買ったらええやん」と。

実はこの大阪ガスの子会社さんね、ほんとは筆頭株主で買いたかったんですけど、本体から25%以上はだめだと言われて。それで自分で買ったらって言ってきたんです。

 

―自分で買うという選択肢が出てきたわけですね。

 

自分で買ったらどうやって言われたときに、うん、まあそうやなって気持ちもあって。もともとそういう気持ちもあったから、親父から借金してやるかみたいな。まあ1億円もないんで。それで自分たちでお金も出して、フランチャイズにもお願いして、それから印刷屋さんにもお願いして、買おうという形になったんです。

当時MBOなんて言葉もないですよ。多分ぼくらが第1号だと思いますよ、上場企業ではね。で、株式を買って再スタートするんですけど、やっぱり荏原をはじめとする後ろ盾が全部なくなるというのはちょっと社会的信用もあるからっていうんで、大阪ガスさんのお取り計らいで荏原と凸版印刷さんが5%、500万円ずつ残ってくれたんです。

これは1年後にぼくが個人的に買い取るという契約だったんだけど、1年後にぼくがそんな1000万円も用意できないから、減資したんですよ。減資だと株の比率が上がるから大阪ガスさんも反対ではないんで。減資をして9000万円で次の年からやり直したと、こういう経緯です。

 

―MBO後、信用面で取引に影響はありましたか?

 

厳しかったですよ。印刷屋さんから、凸版印刷さんの子会社じゃなくなったから前金でないと印刷しないと言われて。荏原と凸版印刷さんが借金取ってくれたと言っても、税法上はマイナスからスタートしている。

末締めの翌々10日でやっていたから、もらう方は末締めの翌末が普通だから1.5カ月ぐらいのキャッシュがないと前金なんかで払えない。そんなのあるわけない(笑い)。きみの住んでいるマンションを根抵当権で出したらその分だけやってやるとか言われて。いやそれは潰れたときにぱどの社員に退職金ぐらい払ってやりたいんで、ぼくこれしか原資がないんで勘弁してくださいと。

末締めの翌々10日から90日の手形でないと回りませんと。それまで1年の手形だったんですよ。もしそれをやっていただけないんだったら印刷屋さんを変えざるを得ませんって言ったら、どうぞ変えてくださいって言われました。

 

 

MBO後の苦労

―MBOで凸版印刷が離れたことで、印刷屋さんが今までの条件では刷ってくれなくなったと。

 

関西で大阪ガスさんがぱどをやるとき、凸版印刷さんが提示した印刷屋さんが高すぎたので、ウィルコさんっていう印刷屋さんにお願いしたという経緯があったんですね。

ウィルコさんは、チラシ印刷では西の雄というぐらいたくさん刷っている会社です。で、ウィルコさんの社長さんにこういう事態になったんで関東の方の印刷もお願いできないかと。あと出資もですね。出資と印刷をお願いできないかと。その条件が末締めの翌々10日から90日の手形でやってくれと。10年後には10倍の仕事をだすから男と見込んでやってくれと頼み込んだら、OKしてもらえたんです。

だから印刷屋さんを銀行として立ち上がったんですね。あのときNOと言われてたらアウトでした。ウィルコさんは今でもうちの大株主ですよ、そのまま株持ってもらっていたから。

 

―10年後に10倍の仕事を出す約束は果たせましたか?

 

その当時は売上が5億円ぐらいのときで、いいとき100億円まで行ったから、20分の1ぐらいの規模ですよね。だから嘘は言ってないです。10年以内に10倍の仕事は出しているんですよ。よその印刷屋さんもやるようになりましたけどね。

 

―MBO後の社内はどうでしたか?

 

MBOをしたときは大変でしたね。本当に背水の陣でお金もないし。

でも逆に、うまくいったこともあります。MBO以前は会社の中で意見が分かれることが多かったんですね。荏原の役員が名前だけの社長で。ぼくは社長じゃなくて編集担当の取締役。それから凸版印刷さんから来た営業担当の取締役。それから荏原の社長室長。で、社長はほとんどいませんから3人で話をするんですけど、ほとんど意見が割れるんです。で、社長室長も途中から来なくなって。そうすると真っ二つに分かれるわけですよ。

ぼくは、新しいものをやっているからいろいろ見ながら、あかんかったらすぐ変えようと思うんですよ。ところが彼は年齢も上やしじっくり派やから、もうちょっと見ようと言って意見が二つに割れるんですね。

 

でもMBOをして凸版印刷さんが全部引きましたから。社員も全部帰ったんで。だから決断は良いも悪いも早くなりましたね。やると決めたらスピードが上がったことは確かだし。

それからなんと言っても大企業がバックにあるから潰れへんとみんな思っていたわけですよ。ところがなくなったんやからこれはやばいということになって気持ちが引き締まりましたね。

 

 

1000万部に向けて規模拡大

―MBO後の業績はいかがでしたか?

 

そうやって内部を固めた2年後ぐらいから「21世紀には1000万部だ」って。92年にMBOして94年ですよね、「2001年には1000万部だ」って言うてたとき150万部ぐらいかな。

言い出したときはもうみんなあいつは気が狂ったんアホちゃうかと。たとえば20万部増やすにも、だいたい初年度5000万円ぐらい赤字が出るのに。売上が数億円しかないのに何を言ってんねんということだったんですが、自分的には初年度、1年後だけは自信あったんですね。

まだ契約も決まってなかったけど、求人不況で、全国で求人誌やってるところが何か新しい媒体持って多角化したいというときだった。ちょうどいいじゃないかということで、その年に関西廣済堂さんとか、アルバイトタイムスさん、泉州広告さんの3社がパッとフランチャイズで入ってくれたんです。で、自分たちもエリア拡大して。最初の年に100万部ぐらい増やせたんです。

それで次の年も2年続けて100万部ずつぐらい増やせたかな。そしたらみんなその気になってくれた。やれるなと。どんどん行こうぜと。

だから3カ月ごとに新しいエリアを創刊するようなスケジュールを立てて。もう無鉄砲ですよね。マーケティングリサーチなんてやってないですよ。

人口と人口密度だけ見て、いけるやろ!って、競合もなんにも考えずに。そんなんやってる暇ないから。行くと決めたら3カ月間で数人が行って立ち上げて、20人ぐらい雇って始めるわけです。

でもそんなときはみんな元気なんですよ。辛いですけどおもろいから。次は誰が行くんかなーみたいな。手を挙げるやつを優先でやらせていましたし。

 

―98年に500万部、01年に1000万部を達成し、01年には上場も果たします。

 

インターネットが出てきて、先行きが曇りだしたときに、ちょうど上場したんです。

ある人を紹介してもらって、上場の請負人みたいな人だったから、証券会社の人を紹介されて年末にゴルフ行って。「倉橋さん、自分の事業どんぐらいの大きさでやりたいんですか」と言われて。

そのときは売り上げ的には30億円とかそのぐらいでした。やっぱり始めたからには全国に4000万世帯以上あるから、全部とは言わなくてもある程度やれば、と概算して。新規事業もやったらまあ1000億円ぐらいはできるんちゃうかなあ、とか偉そうにね。「そうしたら資金が足らんようになるから上場考えた方がいいですよ」って言われたんです。

 

 

上場を決意

そのときは、エリア拡大しようって7年間で850万部増やしたんですけど、そのタイミングで、これから数年間一切配当しませんと株主さんに言ったんです。宅急便が関東だけでやっていたら大きくならんでしょと。佐渡ヶ島も北海道も九州にも送れて盛況になるし、最終的には大企業さんの広告も取っていきたいから、全国を埋める方が先なので、3000万円以上利益が出そうだったら全部エリア拡大に先行投資をしますと。それを許してほしいと言って。

印刷会社さんはエリアが広がれば広がるほど発注量が増えていくわけですから、賛成です。フランチャイズさんも、広く出れば東京から広告入れられるからそれを期待してくださいって言ってOKしてもらって。だからまあすいませんが数年間配当はしませんけど広告の出稿量増やすように努力するんでって言ってOKもらって。

だから、経営的には枯渇しない、赤字にならない程度でどれだけ増やしていけるかという形で広げてきたんですよね。

 

―7年間で850万部増は驚異的ですが、赤字にならないように回していたと。

 

それでも上場を考えた方がいいですよって言われたのはなんでかって言うと、ぱどを発行してると、印刷屋さんの長い支払いサイトが、銀行代わりになりますよね。ところがインターネットなんていうのは、そんなに支払いサイトが長くはならないじゃないですか。逆に先にお金が出て行く方だから。

 

だから経理部長に新規事業が我々の考えているスピードで上がっていったときにどのぐらいで資金がショートするかシミュレーションしてみてくれと。そうしたら2、3年後には危なくなるとわかった。

で、まあそうか、じゃあほんとに考えなあかんなと。うちなんにも資産ないから、土地もないし、人だけしかないから。

で、上場した方がいいって言われて、正月もずっと考えていて、1月5日の年頭所感で「3年後に上場する」と宣言しました。社員は「えー! 何考えてんねん!」って。利益もそんなに出てない会社ができるわけないやんって。

 

でもちょうど孫正義さんがナスダック・ジャパン構想を始めてね。新興マーケットだったら2年後に上場するっていうことをバーンと立ち上げていたから、2001年にナスダック・ジャパンに上場したんです。

それで4月1日には主幹事を決めてキックオフ。1月5日に発表して、上場なんて初めてやから4月1日までに証券会社が決めた人を入社させたりして、4月1日に最初のキックオフ・ミーティングをやった。新光証券さんと契約を交わして。で、上場を決めて動くぞとなると、これはもう大変な作業でしたね。

 

 

2001年、ナスダック・ジャパン市場に上場

―どういった点が大変だったのでしょうか。

 

はじめマザーズに上場するつもりだったんですけど、ITじゃないとあかんのかも知れないからマザーズに聞きに行ったんですよ。うちみたいな企業はマザーズのマーケットに上場することは可能なんでしょうかって趣旨で聞きに行ったら、逆にウェルカムだって言われました。

マザーズの上場基準というのは、新分野で新しい技術、新分野で急速に業績を伸ばせるというものでした。赤字でもいいと。あるいは従来の事業であっても新しい技術とか新しいやり方で急成長が見込める企業。それがなかったんで、おたくみたいなとこはウェルカム、待ってましたと。来年上場できないんですかと言われました。

 

―そんなことが可能なんですか?

 

来年なんかできるわけないんですよ。今まで税法で決算してんのが、証券取引法で3期やらなきゃいけない。そんなん無理やんかと思って。

ほんでその帰りに、喫茶店で話をしてるときに監査法人の先生が「前例はないけどできるかも知れませんね」ってボソっと言ったわけ。税法でやってたのを証取法で決算をやり直すと。過去5年に遡って。そんなことできるんですかって言ったら、うちは商品がないじゃないですか。棚卸し資産がないわけですよ。棚卸しがあるとややこしいことになるんやけど、棚卸し資産がないから可能かも知れませんねと言う。

 

可能性があるんだったらやってみましょうかということになって。弁護士の先生の意見も真っ二つに分かれて。違法だと言う先生もいたし、合法だろうと言う先生もいて。前例がないから。最終的には監査法人さんの判断ということになって。どういう判断が出たかというと、ステークホルダー、取引先も、銀行も、その他のところからも反対が1社も出なければやってもよしと。反対する人なんかいないんで、5年遡って証取法で決算をやり直して、1年で上場させたんです。

 

ところが、途中でバブルが弾けて、赤字企業を上場させないって形になった。MBOしてから毎年100万部ずつ増やして発行部数1000万部まで行ったんだけど、その1000万部目前のときだったんです。

キックオフのときに、そのペースであと10年で2000万部までいきますよ、という計画を出したんですけど、それじゃあ急成長とは言えないでしょうと言われて。今までのペースにもっと弾みをつけるために、1年で200万部、半分の5年で2000万部までできませんかと。いやそんなの真っ赤っかになって潰れちゃいますよと言ったら向こうがね、いや上場して伸びれば30億円ぐらい集められますからと。

それって赤字でもなんでも突っ走れってことですかって言ったら、いけるでしょう、そっちのが株価つきますよとか言ってね。そうかなあとか思いながら。

 

―提案に従ったんですか?

 

これからはITですと言うから「デジタルぱど」という部門も始めて。ここはもっとやってくださいと言われてね。だから事業計画を2億8000万円ぐらいの赤字にして、予実管理を見てくださいってことで。

そしたらどんどん赤字いくよねえ、デジタルぱどは無料でいっぱいデータ集めてサイトを作っているわけですから。

途中でなんか空気がおかしくなって、先生によく聞いてもらったら、バブルが弾けて赤字企業は上場させないようになったって言うから、何言うてんねん赤字にさせたのお前んとこやないかって。

ほんでもう頭に来て、これからもう拡大は一気に止めると。で、予実管理を、こう赤字取り返すからそれを見てくれって計画全部やり直して。2001年の3月22日に、なんとか期ギリギリで上場できた。

それでも最終的に3000万円ぐらい赤字やったかなあ、黒字にまでようせえへんかったんですよ。ぼくなんか4カ月間給料100%カットですから。少しでも余裕出すために。(次号はこちら若者へのメッセージ・ぱど倉橋泰氏インタビュー5

 

オビ インタビュー

倉橋泰(くらはし・ひろし)…1953年大阪府生まれ。京都大学工学部卒業後、1977年株式会社荏原製作所入社。1987年社内ベンチャー事業として株式会社ぱど設立。1992年、MBOにより株式会社ぱど代表取締役社長に就任。2001年、ナスダック・ジャパン(現・新ジャスダック)上場。発行部数1000万部達成。2002年、「ぱど」が発行部数世界一としてギネスブックに認定。2009年より、神奈川県教育委員。2014年より、東京ニュービジネス協議会副会長。同年、株式会社ぱど代表取締役会長に就任。現職。

 

株式会社ぱど

〒141-0021 東京都品川区上大崎2-13-17  目黒東急ビル2F

TEL:0120(090)810

http://www.pado.co.jp/

年商:79億円(2015年3月期)

従業員数:約370名(契約社員含む)

 

2015年10月号の記事より
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