コシノミチコさんがデザインしたとてもオシャレな制服

 

アメリカやアジアを中心に日本酒の海外需要が高まっている。2018年度の日本酒の輸出総額は約222億3,000万円超と過去最高額となり、10年前の約3倍という伸び率だ*1。とはいえ、日本酒の需要増は世界的な日本食ブームに伴うもので、ヨーロッパの名だたるワイン蔵に勝るとも劣らない歴史と多様性をもつ日本酒の実力が十分に理解されているとは言い難い。

 

そうした現状を打開する機運となるのが、2018年にイギリスで日本酒の醸造をスタートさせた堂島酒醸造所(Dojima Sake Brewery)だ。大阪の堂島麦酒醸造所を母体にもつ同社では、ケンブリッジ郊外に東京ドーム約7個分に相当する広大な敷地を購入し、酒蔵を建設。約5年の歳月をかけて開所に漕ぎつけた。投資額は約20億円にのぼるという。日本酒業界のみならず、日本のものづくりに明るい光をもたらすチャレンジについて、同社の橋本忠一氏と杜氏の溝畑利行氏に話を聞いた。

 

 

 

 

ケンブリッジ郊外の歴史ある町で日本酒づくりに挑む

橋本忠一氏(左)と杜氏の溝畑利行氏

 

―2018年にイギリスで日本酒づくりを始めた堂島酒醸造所は、ヨーロッパにおける日本酒づくりの第一号です。文化や気候・風土など日本とはまったく異なる環境で、さまざまなご苦労があったと思います。

 

橋本 堂島酒醸造所は、ケンブリッジから車で30分のフォーダム・アビーという場所にあります。自然豊かな歴史ある街ですから、まず住民の方たちの理解を得ることが課題でした。ほとんどの人が日本酒を知りませんので、住民説明会を開いて日本酒のことを知ってもらい、なぜここでつくるのかを説明しました。イギリスと日本は同じ島国です。閉じているようでいて、外から入ってくるものを柔軟に受け入れる国民性は共通しています。同時に、古きよきものを愛する国民性も共通しています。そういうイギリスという国で日本酒をつくり、ここから日本酒の魅力を広めていきたい、ということを話しました。

 

―醸造所が建つ敷地には、歴史的に貴重なマナーハウスもあるそうですね。

 

橋本 歴史的な建造物や文化を大切にしながら酒づくりを行う姿勢を伝えるために、日本酒が日本の歴史の中で育まれてきたもので、私たち蔵の人間はその精神を受け継いでいることも語りました。敷地には蔵だけではなく住民の皆さんが集まることができる場所を作り、広い庭もオープンにし、マルシェの開催など地域に開かれた場にするプランも示し、3年くらいかけて許可が出ました。

 

―杜氏である溝畑さんは、日本とイギリスを行き来しながら酒づくりを行う蔵人を指導し、堂島酒醸造所の日本酒づくり全体を指揮するお立場です。今回のプロジェクトにはどのような経緯で関わるようになったのでしょうか。

 

 

溝畑 私は醸造所建設の段階ではまだ関わっていなくて、2017年の夏頃にお話をいただいたのがきっかけです。三重県の酒蔵で約20年杜氏を務め、当時はフリーランスの立場でした。「てんまみち」さんという業界でもよく知られた割烹・小料理屋に呑みに行き、旧知の店主と話していると「イギリス行かへんか?」と言われて。最初はイギリスとお酒がまったくつながらなかったのですが、大阪の蔵元さんが酒づくりの責任者を探していて、「溝畑君なら自信をもって紹介できる」と。10月頃に堂島麦酒醸造所の社長とお会いし、その後はとんとん拍子に決まったという感じです。

 

橋本 うちの方では、てんまみちさんのご紹介であり、溝畑さんのご経歴や人柄もお聞きしてこの方なら大丈夫、と万々歳でした。

 

溝畑 2018年の1月末か2月初めに渡英することになったのですが、工事が長引いて実際に行ったのが2018年の3月半ば。着いたらすぐにスタートするかと思ったら、建物の半分に足場が組まれていたり、日本から運んだタンクが梱包されたままだったり。酒づくりはまだまだ無理という状態でした。

 

橋本 建設工事の遅れだけではなく、酒づくりが始まってからも蛇口が壊れて修理を頼んでもなかなか来てくれない。すぐに飛んできてくれる日本とは全然違います。これでオープニングセレモニーまでにお酒が完成するんだろうか、と問題が起きる度に冷や冷やでした。

 

堂島酒造の制服はかのコシノミチコさんがデザインしている。

 

 

環境の違い、水の違い。手探りの中で酒づくりに取り組む

―誰が中心になって酒造りをしているのですか?

 

 

橋本 酒造りの中心は溝畑さんです。あと溝畑さんと共に造りをしている、英国人でトニー・ミッチェルさんという、日本のイギリス領事館に勤務していた経歴をもつ方が蔵人としています。もともと日本酒に強い関心をもっていて、日本人奥様の遠縁の方の蔵で勉強されてました。溝畑さんが日本とイギリスを行き来し、トニーさんを指導する形で酒づくりを行っています。。

 

溝畑 トニーさんには、今では日本人の杜氏や蔵人がしていないようなことも教えました。例えば酒づくり用のタンクの容量は300ℓというように決まっていますが、実際に入る水の量は誤差があります。そこで、少しずつ水を入れて目盛り1mmあたり○ℓ入るか調べる検定を行い、桶帳をつくります。この桶帳はどの蔵にもありますが、すべてのタンクで検定を行うのは大変なので、今はコンピュータで計算する早見表を使用しているところが多い。

ですが、自分で計量していないと、タンク内で何が起きているのかを本当には理解できない。そういうところが酒づくりの肝となるので、イギリスで初めてつくる日本酒でも徹底したいと考えました。

 

―机上の計算ではなく、自ら体を使うことで感覚として理解できるということですね。設備ひとつとっても大変な手間をかけるものなのですね。

 

溝畑 麹をつくる箱は、ホームセンターで購入した木材で手づくりしたんです。ところが、保健所がやってきて、「木くずが出るかもしれない。衛生面で不許可」と言われ、ペンキ塗りを指示されて。ペンキを塗ると木が調湿しなくなるので、麹づくりに適さない道具になってしまう。さらには、オールステンレスのものがルールと言われてしまい、日本での酒づくりとまったく違うことに対応しなくてはならない。智恵を絞りながらひとつひとつ解決することになりました。

 

―日本とイギリスとの気候や風土の違いも大きいですよね。

 

溝畑 ひとことで言うと水の違いですね。イギリスは硬水で、かなり硬度が高いんです。そのままでは仕込みに使えないので軟水化します。でも、そういう水でつくったことがないので、どういう酒ができるのか全く未知数でのスタートでした。酒づくりでは、蔵元から「こういう純米酒をつくってほしい」などのリクエストが来ます。そのリクエストに沿い、この水とこの米を使い、工程や温度管理はこれにして、と何千・何万という組み合わせの中から選択し、できあがるお酒のイメージをつくることから始めます。

ですが、イギリスの水を使うのは初めてですから、そのイメージが固まらない。ゴールのイメージが明確にできない状態で酒づくりするのは杜氏人生の中で初めてのことで、それはすごくこわいことでした。蔵元が納得できない、自分も納得できないお酒しかつくれないならやめないといけない。蔵のすべて、働く人のすべての責任を背負う立場ですから。

 

 

 

フォーダムという土地がもたらした「これまでにない」お酒

―溝畑さんほどの豊富なキャリアをお持ちの方がそういう気持ちになる。本当に新しいお酒造りのチャレンジだったのですね。そうしてつくりあげたお酒は、どういうものになったのでしょうか。

 

溝畑 酒づくりを指揮している時は、「どうにか飲めるお酒を」と祈るような気持ちでしたが、いざ完成すると、これが「よすぎた」というほどのできでした。日本で20年以上何百本もおいしいと思うお酒をつくってきましたが、「こんなにきれいな、透明感のあるお酒ができるんだ」と感嘆しましたね。それは、フォーダムという土地のおかげだと思います。水といい空気といい、強いエネルギーがもらえる場所で、風土も空気感もすごく満ちている。パワースポット的な所なんですね。

 

橋本 それはぼくも感じました。ちょっと言葉で言い表せないような場所です。

 

溝畑 そこで、今まで醸したことがないようなお酒ができた。透明感があるけれど、旨みもある。酒づくりの過程では分析するために毎日布でしぼってもろみを取り、味見するのですが、その時点では、悪くないかな、という感じだったんです。日本のように長年つくってきたデータはないので、最後の最後までどういうものになるのか確実にはわからないし、コントロールできない。ですから、今もちょっと不思議です。なんでこんなお酒ができたんだろう、と。

 

橋本 溝畑さんが25年の酒造り人生で培ってきた部分にないところでつくらないといけない、それは本当に大変だったろうと思います。そうしてできあがった堂島酒醸造所第一号のお酒を300人近く招いたオープニングセレモニーでふるまい、大好評を博しました。

 

 

 

日本酒全体に新しい価値をもたらす「1本15万円のお酒」

 ―完成したお酒「堂島」と「ケンブリッジ」、それぞれの特徴を教えてください。

 

溝畑 「堂島」は純米酒です。「ケンブリッジ」は、仕込み水の代わりにお酒を使って仕込む製法を採用しました。酒で仕込むことで、甘くて濃醇、かつ熟成に耐える強いお酒ができます。自分が関わったお酒で初めての試みです。トニーさんが中心になって酒蔵見学ツアーを実施した時に、記念酒用につくったお酒も含めて3種類の生酒を参加者に試飲してもらったのですが、9割がケンブリッジをいちばんにあげたそうです。ヨーロッパの人にはこういうお酒がうけるのですね。5年・10年とゆっくり熟成させれば、とろみが出てさらに奥深い味になっていくと思います。楽しみですね。

 

―「堂島」「ケンブリッジ」はいずれも1本1000ポンド、日本円にして15万円という価格でも話題を呼んでいます。

 

橋本 イギリスでお酒をつくる大きな目的が、当社だけではなく、日本酒全体に新しい価値をもたらしたいというものでした。日本酒の海外需要が伸びてはいても、星付きのレストランには置かれていない。それは値段が安いから。欧米では、価格が高いものに価値があるためです。味の良さは絶対ですが、それは当たり前で、どんな付加価値をつけていけるかが問われます。

 

―たしかにグランメゾンのドリンクリストには、日本酒はないですね。

 

橋本 ぼくたちがこの価格を示すことで、日本の蔵に対してもっと高い価格をつけていい、と伝えたいですし、そもそも日本酒をつくる手間を考えたら1本15万円でまったく問題ないんです。日本で販売されている日本酒と比べるとべらぼうに高いけど、ワインに比べるとまだまだ安いですから。

 

溝畑 日本では苦労してお酒をつくっているのに自分たちで安い価格をつけています。大手の酒造会社が薄利多売でやっているので、低い方での価格競争になっているんです。それでは、お酒の価値を上がらないし、苦労してつくっている杜氏も蔵人もお給料が上がらない。堂島酒醸造所の社長は、私やトニーさん、酒づくりに携わっている人達の価値も上げたい、「だから1000ポンドという価格にするんだ」とおっしゃっていて、それはとても意気に感じました。

 

橋本 うちのお酒がそういう価格で売れていくと日本の他社もありがたいと思うようになるはずです。今、日本でお酒の価値というと、米をどこまで削るかということばかりですが、どういう場所でどういう想いでつくっているか、つくり手の意義をお酒にのせていきたいんです。いいお酒をつくる。しかもイギリスでつくり上げるということに大きな価値をつくり出したい。ワイン用語で言うテロワールですね。高価なワインが昔からの文化としてあるヨーロッパだからこそ、価格が安い=価値がない、そこに甘んじてきた日本酒のありかたを破っていけると思います。

 

―日本人もイギリスでつくった堂島酒醸造所のお酒を飲めば、15万円の価値に気づくと思います。

 

溝畑 先日、お酒はほとんど飲めないという日本人の方がケンブリッジを飲んでくれ、「まるで細胞にしみいるよう。こういう感覚は初めて」と言ってくれました。不思議な力と魅力がある土地でできたお酒だからなのでしょうか。日本の人たちにもこのお酒を飲んでもらいたいし、できればフォーダムという場所に足を運んで、土地の空気感を感じながら味わってもらいたい、と思いました。

 

橋本 本当にそう思います。使っている水は氷河期の地層に守られた水脈から汲み上げている水を使っています。

 

―それはすごいですね。ますます特別なお酒という感じがします。

最後に、今後のお仕事や堂島酒醸造所のビジョンについてお聞かせください。

 

溝畑 これは以前からの持論なのですが、杜氏の仕事は酒をつくることはあたりまえで、次の人を育てられるかが問われていると思います。酒づくりでは感覚が大切なんです。作業のひとつひとつを体にしみこませて、さらにその時に起きていることを「どうしてこうなったんだろう?」と考えることで、感覚を養っていきます。それを積み上げていくことで、引き出しが増え、酒づくりにおける「良い加減」を感覚でつかみとれるようになっていく。イギリスの蔵に行くたびに、「どうして今日は温度落とすのか」「なぜこの麹をつくる時にこの作業をするのか」と質問し、自分で考えてもらっています。

 

―経験とひとことで言いますが、本質は思考の蓄積なんですね。

 

溝畑 自分の引き出しが増えれば、お酒づくりのゴールがイメージできるようになり、そのためにはどんな米をどういう風に洗い、どんな麹をつくるのかがわかるようになります。そういうプロセスひとつひとつをトニーさんをはじめイギリスの蔵人に伝えていきたいし、さらにはフォーダムの蔵が50年、100年と続くような技能のシステムをつくりたいですね。堂島の酒は今生まれたばかりなので、年数がたつごとにもっとよくなっていくはず。イギリスで酒づくりをするというパイオニア的な仕事に携われているのはすごくありがたいですね。

 

橋本 溝畑さんの教育論は本当にすごいし、ぼくも日々教えられています。「醸す」という言葉は、業界の酒づくりの言葉ですが、酒をつくりながら人も醸していると思います。うちの蔵は日本酒、Sakeの価値を高める為、製造本数を限定するようにしています。製造だけで時間に追われることがない。その分人を育てることに注力しようと思っています。将来は酒づくりのアカデミーをつくり、日本酒づくりを志す人に知識や技術を伝え、育成していく場にしていきたいです。

 

―醸造所にはカフェやレストランの併設も計画されているそうですね。

 

橋本 カフェやレストランで日本酒と日本の食を楽しんでもらうほか、日本庭園など日本文化を発信する場づくりも考えています。そのためにも、まずは酒蔵としてトップクラスを目指していく。ロンドンやフランスでも日本酒の蔵ができていますが、これから世界で増えていく蔵の目標にもなりたい。堂島酒ブリュワリーは、最終的には日本のいろいろな技術を集約する場所にしたい。そのためには必死のパッチでやっていかないといけない、と決意を新たにしています。

 

―ありがとうございました。