筒井潔オビ1

篠原浩一郎氏インタビュー・昭和財界傑物伝【前編】

学生運動の指導者が語る四人の傑物・財界官房長官からヤクザの親分まで

◇インタビュアー:筒井潔/取材:加藤俊 オビ インタビュー

篠原浩一郎氏…九州大学在学中、全学連の中央執行委員として60年安保闘争に参加、数度の逮捕と入獄を繰り返した篠原氏。その後、日本精工を経て、現在はBHNテレコム支援協議会常務理事を務められている。その数奇な半生と共に、篠原氏のすれ違った数多くの政財界人たちの横顔を伺った。

◆財界官房長官:今里広記氏(日本精工 社長)◆財界の鞍馬天狗:中山素平氏(日本興業銀行 頭取)

◆昭和の怪物:田中清玄氏(国際的フィクサー)◆日本一の親分:田岡一雄氏(山口組三代目組長)

 

 

写真のこの老人、どこからどう見ても好々爺という風貌だがとんでもない人である。逮捕歴13回。その昔、岸信介政権を退陣させた学生運動60年安保の指導者だ。

敗戦を引きずっていた日本はこの運動を機に高度経済成長期へと変貌を遂げるのだが、その時代の接合点に立ち会ったのが、写真のその人、篠原浩一郎さんなのだ。

しかし日本が高度経済成長期に入り輝かしい時代へと進む一方、篠原さんは数奇な半生を辿る。山口組の親分や右翼のフィクサーとの邂逅。その後「九州大学をでて山口組もないだろ」と拾われて日本精工へ。アウトローから大手企業への転職、それが許された時代に、日本の戦後史の底流に流れるピカレスク小説的要素ともいえる面白さがある。

いま篠原さんにお話を聞くことによって、昭和という時代が内包していた陰と陽を今一度接合させて、在りし日の輪郭を描きなおしたい。

 

義を見て為さざるは勇無きなり

 

―篠原さんの生まれは1938年。育ちは九州の久留米。子供の頃はどういった環境だったのでしょうか?

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篠原浩一郎氏、以下篠原:親の教えとして覚えているのは九州という土地柄からか、いじめはするのはもちろん、やられても絶対にダメということ。仮にやられたら是が非でもやり返せと言われていました。

そうそう、中学の時分には喧嘩の立会人をしたことがありました。あるとき友人から『あいつに仕返ししたいから果し合いの立会人になってくれ』と頼まれてね。ちょうど通っていた中学の前にブリヂストンの創設者の石橋さんの屋敷があったんです。で、その裏手に相手を呼び出して。そこで私は腕組みをして二人が取っ組み合いの大ゲンカをして血まみれになっているのを見守る、と。マァ、私らの世代ではそういうのがあったんですよ。

大人でも上司とケンカして会社を辞めたなんてよく聞きました。けれど、そういうヤツは気骨がある、ってまた別の会社が拾ってくれたりね。会社の内でも外でも、弱い者いじめはしないし、そういうことをするのは自分の沽券に関わる、という矜持があったのでしょう。

 

 

―ご自身は、どんな少年時代だったのでしょうか。

 

篠原:遊びまわっていたな。木登りとか鬼ごっことか。勉強は国語が好きでした。というのも、うちの親父というのは戦中に満洲で肺病を患っていていつも寝たきりでね。私が枕元で本を読みあげると父に喜んでもらえて。嬉しかったなぁ。だから近所の露店で私はよく本を買っていたんです。『源平盛衰記』とか『東海道中膝栗毛』とか。それを一生懸命読みあげた。もともと父は土建業の人でしたから、浪花節の話や人情物、股旅物が好きでね。ああいう物語はストーリーが面白いから、子供でもどんどん読み進めていける。それでいつのまにか読解力が身につきました。父は小学二年生の時に死にましたが、あの枕元で読み上げた物語が勉強の基盤になっていったと信じているんです。

全体として勉強は得意でしたが、一方でスポーツはあまりやっていませんでした。当時のスポーツというのは球技ばかりでね、私は得意でなかったんです。

というのも、今もそうですが、私は当時からメガネをかけていたので。昔のメガネは牛乳瓶の底みたいに分厚くてさ。走ったりするとすぐガクガクずれてしまうので、スポーツをやるときは外さないといけないんです。でも外すと何も見えない(笑)。そうそう、メガネでいえば学生運動時代にデモをしていた時もズレると困るから外していました。

 

 

―デモのお話が出ましたが、そもそも学生運動に参加するきっかけみたいなものはあったのでしょうか?

 

篠原:私はけっこうでしゃばりな性格なんですよ。級長をやったり学芸会で主役をやったり。何かあると前に出ていってしまう性分なんです。そういう生来の気質が禍して、幸か不幸か学生運動の先頭に立つことになったんです。

 

―篠原さんが大学に入学した頃は、もう学生運動が盛り上がっていた?

 

篠原:そうでしたね。あの頃は日本全国どこもかしこも安保闘争の只中にありました。日米安保を推進する岸信介政権を打倒しなければ、日本は再び戦争に突入していってしまう、そういう気運がありました。

で、そんな時代に育つと『義を見て為さざるは勇無きなり』という言葉が根底にあるものだから、その流れに自らも投じようと。やはり戦前に生まれた私らの世代には皆にあると思うのですが、命を差し出せるものを見つけられたら喜んでそうしたい、と考えていたわけで。

 

―命を掛ける価値が安保闘争にはあった、と。

 

篠原:ええ、ありましたよ。1960年は1月に岸首相の渡米を止めるために羽田空港ロビーを占拠したり、4月にも国会前でデモをしたりして何度も拘置所に放り込まれた年でしたが、その時に一緒に捕まっていた唐牛健太郎と『俺たちは革命のためならいつでも死ねる』といつも話していたぐらいですから。

唐牛健太郎氏……1937年~1984年、北海道函館生まれ。北海道大学在学中に全学連委員長に就任。1961年に委員長を辞すると、新たに共産主義学生同盟の結成を画策するが、失敗、政治活動から身を引く。その後、様々な職業に従事しながら全国を放浪し、1984年に死去。

 

 

田中清玄、そして田岡一雄との出会い

 

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―篠原さんというと右翼のフィクサーであった田中清玄と交流していたことが言われています。田中清玄は会津藩筆頭家老の家柄として北海道で生まれて、東京大学在学中に戦前の日本共産党に入党した人物。当時の共産主義運動は非合法で、書記長だった清玄は武装路線を取り官憲殺傷を引き起こしていますね。その後治安維持法違反で逮捕され11年近くを獄中で過ごしている。

戦後は右翼に転向して熱烈な天皇主義者になった人です。学生運動に飛び込んでいた篠原さんが、どうして田中清玄さんと出会ったのでしょう?

 

篠原:これはもうね、学生76人が一斉検挙されてしまったために全学連として保釈金を工面しなければならなくなったんです。

 

―60年安保の年である1月16日。安保条約調印のために渡米する岸首相を阻止しようと、全学連約500名が羽田空港ロビーに座りこんで警官隊と衝突した際の?

 

篠原:そうです。結果的に私も捕まり76名も逮捕されてしまった。一人1万円としても最低76万円は工面しなければならなかった。当時では大金です。そこで当時財政部長だった東原吉伸や共闘部長の小島弘さんがシンパの著名人や知識人を駆け回ってカンパを集めたんです。その時に戦前の日本共産党中央委員長でその年『文藝春秋』に全学連に好意的な文章を書いていた田中清玄さんを訪ねた。そうしたらえらく気に入ってもらえてね。支援金を出してくれただけでなく、私らが出所したら呼んでこい、という話になったみたいで。それで実際に唐牛と二人で拘置所から出て一緒にメシを食べましたよ。それが田中清玄さんとの出会いのきっかけです。

田中清玄氏……1906年~1993年。戦前、日本共産党に参加し、中央委員長を務める。十年の獄中生活を経て共産主義と決別し、戦後は右翼活動を行うと共に、政財界に太いパイプを作る。戦後のフィクサーとも称される。
東原吉伸氏……1938年~、姫路市出身。60年安保では全学連書記局で財務部長をしていた。現在、株式会社天祥技研代表取締役。

 

 

―政財界に大きな影響力を持つ、右翼のフィクサーとも称された田中清玄の印象は?

 

篠原:それが世間では右翼の親玉なんて言われていたけど怖くなかったんです。私らは生意気な学生だったから臆することは一切なかった。そもそも私らは一人ひとりがいつでも命を投げ出せる、なんて大口を叩く学生だったし、そこはもう右翼の親玉だろうがヤクザの親分だろうが、『対等だ!』と思って気後れせずに付き合っていましたよ。だから清玄さんの凄みがわからなかった。

清玄さんにしてみれば、生意気な小僧だけれども可愛かったんじゃないかな。私たち、とくに唐牛のことが。同じ函館の出身で反体制という点でも共通項があったわけで。それこそ唐牛が生意気な口をきくたびに笑って喜んでいたから。一方、私らからしてみれば清玄さんがどれだけ大物な人物かもわからないから、今にして思うと大分軽んじていたところがありました。

でもね、そうなるのにも理由があってさ。というのも清玄さんの話って若干嘘くさいところがあったんです。大風呂敷というか、あまりにスケールがでかい話が多くて。例えば、昭和天皇にインテリジェンスを届けていた影の藩屏だった話とか。あるいは、欧州統合の父と言われたオットー殿下(オットー・フォン・ハプスブルク大公)やフリードリヒ・ハイエクとの交流、モンペルランソサエティーの会員だという話。そういった話をよく自慢してきましたから。

だから大変失礼な話なんだけど、このおっさんは大ぼら吹きなんじゃないかな、って思っていたんです。それが、清玄さんの言っていたことが全部事実だったと知るのは、時すでに遅く亡くなった葬式の際でしたね。戦前の武装共産党時代から闘争を繰り広げてきた本当にすごい人だったのにね。

 

―確かに田中清玄は面白い人物です。戦前の武装共産党の指導者から後に右翼となり児玉誉士夫のライバルとも称される国際的なフィクサーになった。一方で左翼から右翼に転じた背景には、母親の自決があったとも言われていますね。当時共産党中央部と官憲が激しく撃ち合った和歌浦事件の直後、母親が自決。「おまえが家門を傷つけたら、おまえを改心させるために私は腹を切る」と常日頃から言っていたそうですが、実際に遺書にも「おまえのような共産主義者を出して、神にあいすまない。お国のみなさんと先祖に対して自分は責任がある。また早く死んだおまえの父親に対しても責任がある。自分は死をもって諌める。おまえはよき日本人になってくれ。私の死を空しくするな」とあったそうです。

わが子のための諌死があって10年の入獄を経て左翼から右翼に転じるわけですが、その後三島の名僧、山本玄峰老師に弟子入りします。昭和天皇の侍従長、入江相政氏の『入江日記』によれば、1945年の12月21日に田中清玄は生物学御研究所の接見室に招かれ、石渡荘太郎宮内大臣、大金益次郎次官、入江侍従らとともに天皇に会っているそうです。小一時間、清玄は退位なさるべきではないことを懸命に申し上げたといわれています。つまり、昭和天皇との関係もまんざらホラではなかった。

まさに昭和の傑物とも言うべき田中清玄ですが、篠原さんがほかに憶えていらっしゃる清玄とのエピソードはありますか?

 

篠原:清玄さんが語ってくれたことで一番憶えているのは共産主義運動がもっているおかしさについて。ソ連の共産主義はロシア一国を守るだけのもので、そのために国際共産主義ネットワークが作られた。だから共産党はソ連のスパイに過ぎないし、日本共産党自身もソ連のことしか考えていない、と共産主義が形成されていく過程で日本の責任者をしていた清玄さんから聞けたのは大きかった。

 

―それは衝撃的ですね。そう話す田中清玄自身はどんな方だったのでしょう?

 

篠原:常に国のことを第一に思っている人でした。でも血の気が多くてね(笑)。言っていることも大きいんだけど、とにかく言葉が剣呑で。『ぶっ殺してやる』とかすぐに飛び出してくる。そういった意味では山口組の田岡一雄さんのほうがよっぽど物静かな人だった。

 

―山口組三代目組長の田岡一雄さんのお話が出てきましたが、二人はどのような関係だったのでしょうか?

 

篠原:よく私と唐牛を交えて四人で、赤坂の田中清玄事務所やその地下のレストランで飲みました。清玄さんは反帝国主義反スターリニズムというスタンス。児玉誉士夫も右翼で暴力団を集めたりしていたけど、それではダメだ、と考えて関西の山口組を上京させて対決させようとして田岡さんを説得していた。私たちもそこにいたけど、清玄さんは学生の力は借りない、お前たちはまだ甘い、と。マァ、というわけで田岡さんとは同志みたいになってたね。

 

―田岡さんと知り合った経緯は?

 

篠原:田岡さんは当時山口組を全国に拡大していく中で東京にも頻繁に来ていて。それで清玄さんの事務所にも来ていました。清玄さんと田岡さんは親友同士でしたからね。それで清玄さんを通じて紹介されました。

田岡さんはね、清玄さんと違って寡黙。しかし凄みがある人。そして人を惹きつける何か磁力のような魅力がある人でした。何よりヤクザの役割に強い信念をもっていました。つまり、「社会に加われない行き場のない奴らの受け皿として俺たちヤクザは必要なんだ。カスだって人間なんだ。彼らにしっかりしろと言ってやって、仕事をやって、カタギに迷惑かけないように面倒を見ていかなければならないんだ」と。マァ、古き良きヤクザですよ。

本当にあの時代には必要な存在だったんだと思います。考えてみるとね、学校のクラスにも必ず落ちこぼれが何人かいましたでしょ。そういう社会に馴染めない奴らが、犯罪に走りカタギに迷惑をかけないために仕事を与え、居場所を与えてやらないといけない。そういった意味でヤクザという組織が日本社会のセーフティーネットとして上手く機能していた時代が確かにあったことは間違いない事実です。

田岡一雄氏……1913年~1981年、徳島県生まれ。十代から山口組に加わり、戦後三代目を襲名する。神戸の港湾労働者の手配と芸能興行で財を築き、組長襲名時僅か三十数人だった山口組を全国規模に拡大した。

 

 

―「ヤクザ」という職業の必要性に強い思いを持っていたんですね。

 

篠原:そうですね。象徴的なエピソードがありますよ。それこそ山口組が大きくなりだして間もない頃でした。東京オリンピック開催を前に、ヤクザ組織を壊滅させるために俗にいう「第一次頂上作戦」が展開されて警察の締め付けが厳しくなっていってね。当時大きかった色々な組織が解散していったんだけれども、当然のことながら警察は山口組にも圧力をかけました。子分たちの企業に圧力をかけて、それで舎弟たちに山口組を脱退する、という誓約書を書かせていくんです。

その頃体調を崩して入院していた田岡さんの病室に警察の本部長がその誓約書を持ってきて突きつけるんですよ。「もうお前の子分はこれだけ少なくなってるぞ」とね。でもね、田岡さんは決して首を縦に振らなかった。その間にも組の人数は少なくなっていって数百人くらいの規模になってしまい、ついには当時の若頭も解散しましょうと言うんだけれども、田岡さんは病院のベッドの上にいながら、決して首を縦には振らなかった。信念があったから耐えたんだろうし、だからあの時代に多くのヤクザが解散したあとも残っていったんでしょう。

 

―篠原さんは学生運動後にその山口組で働くことになったそうですが、こちらの経緯は?

 

篠原:私は逮捕歴が13回になっていましたからね(笑)。一般企業で働きたくたって働けるわけがなかった。それに1962年に大学を卒業した時には、もう新左翼は内ゲバになっていて同志討ちし始めていた。その昔の仲間をお互いに殴り合う姿が、否定していたスターリンと同じに見えたんです。あの瞬間、共産主義の内側に孕んでいる毒をまざまざと認識できました。それで縁を切りました。そうしたら清玄さんから、唐牛と東原はウチが引き取るから、お前は田岡さんのところへ行け、と。

それで田岡さんが神戸で経営していた海運業者の甲陽運輸でしばらく働かせてもらったんです。田岡さんとはよく飲みましたよ。『全学連と山口組、どっちが強いだろう!』なんて馬鹿話で盛り上がったりしましたっけ。

 

―随分壮大な話ですね! さすがにそこは山口組、と答えるのでしょうか?

 

篠原:いいや、譲らない(笑)。当時私は自分たちの手で岸政権を退陣まで追い込んだという自負があったから。それこそ学生をはじめとした若いヤツを大勢動員できるからヤクザより全学連のほうが強いですよ、ってね。それをまぁ、怒りもせずに笑いながら聞いてくれるわけです。清玄さんがヤクザに狙撃された時(1963年11月)には目の前で深く頭を下げて謝罪してくれましたね。日本精工に移ってからは会うことはありませんでしたが、今になって思い返してみても本当に大人物。素晴らしい人でした。

(次号に続く)

 

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