企業にとって最も重要なことは何か?

その答えを「売上高を増やし会社を大きくすること」だとする経営者は多いだろう。

確かに、どんなに立派な企業理念があり社会に役立つ商品・サービスを提供していても、利益なくして会社は存続できないことを考えれば、その回答は決して間違いではない。

だが一方で、「大切なのは利益ではなく、まともなことをやっていくこと。そうすれば結果は自ずとついて来る」との信念を貫き、大きな結果を出している経営者もいる。そんな稀有な人物とは、株式会社翔栄クリエイトの創業者にして現代表取締役・宇佐神慎氏だ。

1997年に、勤務先の会社の負債を整理するために会社を設立。2000年時点では2億6千万円にもなった負債を約4年で完済の目処をつけ、現在は8分野、年商約41億円を上げる。今なお挑戦を続ける、その宇佐神社長が最も大切にしてきたものとはー。

 

心を成長させる術を求めた青年時代

宇佐神慎氏は宮城県・仙台市の生まれで父は医師。小学2年の時に茨城に引越し、そのまま何事もなければ苦労知らずの医者の息子として成長したかもしれない立場だった。

しかし高校生の頃、父親が患者のためにと押印した白紙委任状が元で、一家に大きな借金ができ、生活は一変。

家に乗り込んできた強面の事件屋に「家が大変な時に学校なんぞ行っとる場合か! 仕事やれ!」と迫られたのだ。

当時の宇佐神氏は、怪我のために中学・高校を各4年ずつ通っており、高3でありながら既に20歳。兄は地方の国立大生、弟3人は未成年だったため、白羽の矢は宇佐神氏にたち、無リン洗剤販売会社の社長として洗剤の販売を手がけることとなった。

 

ところがこの洗剤は、環境にすこぶるよいものの落ちは非常に悪い。その事実を顧客に隠して販売することができなかった宇佐神氏は、堂々と売れる「汚れが落ちる無リン洗剤」を開発するために、茨城大学工学部への進学を決意する。

しかし、ほどなくして大手メーカーから「落ちる無リン洗剤」が発売されたことで、会社は解散してしまう。学ぶ目的を失った宇佐神氏は茨城大学を中退。福祉なら人のためになるだろうと、茨城キリスト教大学の福祉コース3年次に編入した。だが福祉の現場を知るにつれ、どの職業に就くかより、自分の内面の成長こそが「まずは重要!」と感じるに至ったという。

それは、心からの行動が重要なはずの福祉の現場なのに、決められた事をこなすだけに終始し、個々の必要をケア出来ていない現実を見たからだ。

現場では良いマニュアルや制度を作れば作るほど、サービスは画一的になり、利用者に寄り添う姿勢を無くすようだった。またワーカーも、形を立派にやることで勘違いし、自分たちが利用者不在の行為をしている事に気付かない。

宇佐神氏は、マニュアルや制度を超えた心、「愛」の動機が、自分にはまず必要だと思うに至った。

そして、中学生の頃から親しんでいた聖書の中に「本物の愛がある」との確信を得、聖書を真剣に読むようになり、自分の言動を聖書という鏡でチェックし、心の成長を追い求め始めたのだった。

 

訓練の始まり

聖書で神は「わたしに呼び求めよ。そうすれば、私はあなたに答える」と言い、また「神は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子をムチ打たれる」「試練を耐え忍ぶ人は、幸いである」とも書かれている。

心の成長を渇望する27歳の宇佐神氏は、この言葉を受けて神に「どうか僕を訓練して、本物にしてください。成長させて下さい」と願った。

するとその直後に、電話民営化直後でブームが去ったばかりのビジネスフォンの販売を行う代理店企業への就職が舞い込んできた。社長に恩義があった宇佐神氏は同社に就職。

そこから、「神の訓練」が始まることとなる。当時会社は売り上げが低迷し、従業員の給料も出ず、寮や事務所の家賃も遅れ気味というありさま。

そんな状況を何とかするために宇佐神氏が行ったのはとにかく営業することだ。

足を棒にして夜9時、10時までひたすら飛び込み営業を繰り返し、その熱心さから多くの中小企業社長に好まれ、多くの契約を獲得することに成功した。

 

だが売り上げがあがると、社長はそれを原資に営業所を開いてしまう。

会社の経費はかさむばかりで、その経費をまかなうべく、宇佐神氏は新規仕入先を開拓。OA機器や建築CAD、会計システム、オフィス家具などまで取り扱いを拡大して売り上げを更に伸ばした。

しかし社長の拡大経営は更に加速し、営業所は13拠点に急増。経費が粗利を上回り、とうとう仕入先からも買い掛けが出来ない状況となってしまった。

宇佐神氏からすれば、いくら売り上げを上げても仕入先への未払いが増える一方で、入社10年目にはその額、7000万円にもなっていた。

所属する会社がこんな状態なら、さっさと辞めて次の仕事を探そうという人が大半だろう。

しかし、宇佐神氏はそうはせず、それどころか、社の借金の一部を個人的な借金で支払ってでも、会社を辞めない道を選んだ。

その理由は、「今の環境は、神様に“訓練してほしい”と願った結果与えられたもの」だとの思いがあったからだ。

 

「神様によってこの場所に置かれたということは、ここで学ぶべきものがあるということ。ならば、神様に身をゆだねて〝流れ〟に逆らわず、この場所で果たすべき責任を進んで受け入れよう」

 

そう思って困難な道を敢えて選んだ。だが、借金のために起こした翔栄システムでの宇佐神氏の苦難は、それだけでは終わらなかった。借金返済が続く中、ほどなくして、その社長は、宇佐神氏を連帯保証人として銀行から翔栄システムが借入れた3300万円を、宇佐神氏に無断で借用したのだ。

そのためにまたもや仕入先への支払いが困難になった。

「このままでは仕入先に責任を果たせない。会社を助けるために翔栄システムを設立したのに、どちらもダメになってしまう。もう会社を辞めて独立すべきではないか」

 

そんな思いが頭に浮かぶ。「ただ現状から逃げるための口実ではないのか。逃げることを正当化しているだけではないのか」とも思える……。

2つの考えの狭間で葛藤した末に、宇佐神氏は遂に元の会社と縁を切ることを決断する。

その時、宇佐神氏に積もった負債は2億6000万円。長年の無理により体調も崩し、まさに惨憺たる状態に陥っていた。

 

重要なのは目先の利益ではなく、正直にまともな道を歩むこと

聖書には「もし人を赦さないならば、あなたの天の父も、あなたの過ちを赦してくださらない」とある。だが、自分の人生を台無しにしたと思える相手を「はいそうですね」と赦せる人が一体どれぐらいいるだろうか。

宇佐神氏も「社長に人生を狂わされた!許せない!」との心に吹き荒れる思いを抱えたまま、2〜3年は葛藤の日々が続いたという。

だがある日、とうとう宇佐神氏の口から「社長を赦します」との言葉がこぼれ落ちた。

その言葉に導かれるように、社長を赦したことでまず起こった変化は、自律神経失調症や亜急性甲状腺炎など長年借金と共に宇佐神氏を苦しめつづけた病の数々がいつの間にか消えたことだ。

だが、不治の病といわれるシェーグレーン症候群だけは治らず、涙が極端に出なくなり、日々真っ赤な目で痛みをこらえる日々。角膜がはがれては、救急車で運ばれたことも一度や二度ではなかった。

だがこの時の宇佐神氏には「いつかこの病気も治る」という確信があったという。

聖書に「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」「神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだから」とあるからだ。

シェーグレーン症候群だけが治らないのは、この病気を通して神様が自分の耳を開かせて下さり、学ばせたいことがあるからだと心から信じられたのだ。

そして1年ほど後のある日、神に祈っていた宇佐神氏に、「今日癒してくださる」との思いが湧き、その日の夜にシェーグレーン症候群は跡形もなく完治したという。

今年7月に移転した新オフィスのエントランス。お祝いの花が所狭しと並べられている

これら一連の経験は、神を信じていたつもりでも、実際にはお金や健康のほうを当てにして生きて来た自分の実態に気付く基となった聖書には、「神よ、私の心は定まりました」と、厳しい訓練を通ったあとのダビデの言葉がある。

宇佐神氏も、これらの出来事をくぐりぬけたことで、成長を促してくれた神様を本当の意味で信頼することができるようになったという。

その後更に、リーマンショックの時にはコツコツ積み重ねてきた資金を一度に吹き飛ばす事件に見舞われるが、「いろいろな試練に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしい事と思いなさい」「すべてのことに感謝しなさい」との聖書の言葉を実行。

資金繰りが行き詰るところに、「もう潰れるというノンバンクの行員を2人雇えば3億円融資する」という話が持ちかけられるが、即座にこれを退け、ただ人事を尽くして天命を待った。

すると、まだ着工もしていない案件の前払いがなされたり、3年間売れなかった自宅が売れたり、何度催促しても返ってこなかった保証金が支払われるなど、必要な日に必要な額の入金があるという奇跡を経験。

資金繰りに窮しつつも、本当に必要なお金は一銭たりとも足りなくなることはなかったという。

 

そんな宇佐神氏の下、翔栄クリエイトは成長を続け、事業面では借金返済のためだったOA機器販売に替えて、「業績を上げるオフィスデザイン事業」をスタートさせた。

それは、飛び込み営業で多くの中小企業の経営者と出会ってきた中、誠実で高い技術のある企業が、見せ方やアピールが下手なゆえに、社会に理解されず潰れていくのを多く見てきたからだ。

 

「人は出会いの数秒で相手に判断されますが、企業も一緒です。百聞は一見に如かずと言うでしょ。

人に化粧や身だしなみが必要なように、企業にもその良さを表現するデザインが必要です」と宇佐神氏は言う。

 

しかし当時は、「オフィスデザインなんて儲かった会社がやるものだ」と思われていた時代。宇佐神氏には「時代のニーズがそこにある」と思えたが、社会はそのニーズを全く感じていなかった。まず顧客にニーズを喚起させ、顧客を創造していく忍耐からこの事業が始まり、今では同社の中核事業となった。

加えて現在では、各種の社会ニーズに応えるべく、太陽光発電やバイオマス発電所の設計・施工を行うクリーンエネルギー事業、企業のWeb担当者育成研修事業、建築・電気工事業、災害時に電気と水の供給が可能な事業、メディカルダイエットスタジオ運営、無農薬や非遺伝子組み換え原料の食品や飲み物の製造・販売事業、農業など、8事業を展開するまでになっている。

経営陣向けWeb活用研修事業やプライベートジム事業、建築設計施工事業、農業事業などさまざまな領域に事業を拡大している

 

Ⅱ. 翔栄クリエイトの3つの企業理念

「人にとって重要なのは外側を取り繕うことではなく、心から愛のある行動が取れる人間へと成長させていくこと。目先の利益を重視するのではなく、正直にまっとうな道を歩むこと」。

宇佐神氏が人生をかけて証明してきたその信念は、個人の生き方に留まらない。宇佐神氏が創立した会社・株式会社翔栄クリエイトにももちろん反映されている。それを端的に表しているのが、起業直後に作られた企業理念だ。

同社の企業理念は、次の3項からなっている。

1)正直で、常に社会に必要とされる企業である
2)真の意味で、時代のニーズに応えうる事業を行う
3)人としての成長と職務上のクオリティを限りなく追求する

 

文字にすると5秒とかからず読めてしまうが、そこに込められた思いは深遠だ。

中でも、宇佐神氏が最も重視するのは、3番目にある「人としての成長と職務上のクオリティを限りなく追求する」である。

なぜこれが最も重要かというと、人の集まりである企業が顧客に最高のクオリティのサービス・商品を提供するには、従業員一人ひとりが心から顧客のためを思って行動できる人へと成長する必要があるからである。また、「成長」こそがすべての人にとっての人生の目的そのものだからだ。

 

人生を賭けて確認するもの

「成長」に関する宇佐神氏の話はとても深い。

「人は表面的外面的な成長を気にしますが、内側から変わらなければ、表面をただ取り繕う偽善者になってしまいます。まず見えないところ、根っこをしっかり張ることが重要です。しかし多くの人は、見えるところばかり繕おうとします。そこに突如として、人生の嵐が訪れます。その時、しっかりと根を張って準備が出来ている人は、試練によって成長し、見えるところばかりに気を取られてきた人は、嵐と共に流されてしまうのです。同じ雨が人によって、恵みの雨と滅びの雨になるのです」と言う。

 

宇佐神氏のいう「成長」は、普通の常識とは真反対だ。どうしても人は外面に注目し、自分の努力で自分を仕立て上げようとする。しかし宇佐神氏は自分で自分をつくることは出来ないと自覚し、内面に目を留め、人生の嵐に身を委ねることで成長すると言う。

宇佐神氏の人と違うところは、自分の考えで判断しないところだ。「成長」こそ人生の目的だと「聖書」から学び、素直に実行している。同氏は、たかだか75億分の1である自分の考えが正しいとは思っていない。この短い人生で、自分が努力して真理を見出したと思っても、それも間違っているのではないかと思うのだ。

 

では何故「聖書」なのか?宇佐神氏は聖書に関してこのような見解を持っている。

「聖書は世界最古の本であり、別名を『The Book』と本に定冠詞がつくほどの権威があり、どの時代にもベストセラーで、世界3000の言語に訳されている、他に類を見ない不思議な本だ。BC1500年〜AD100年の1600年の間に40人程の人によって書かれたのに、あたかも一人の人によって書かれたように統一された内容だ。

しかも今まで書き換えられたこともなく、現在も多くの人に影響を与え続けており、この聖書から、ユダヤ教・イスラム教・キリスト教という宗教も生まれている。更に神道に至っては、宗教とも日本民族の伝統ともいえるこの様式儀式の数々が聖書そっくりだ。

だが聖書自体は宗教書でない。聖書は、世界人類や文明の発祥からAD100年頃までの歩みが書かれてある歴史書で、現代や将来の預言までもある。そこから学ぶ真理は深淵だ」と宇佐神氏は話す。

 

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とあるが、聖書の中の人物が、如何に歩み、如何に失敗し、如何に成し遂げたかを注意深く読むとき、そこには誰もが納得する真理が学べるのだ。

 

そして極めつけが「聖書の権威」だ。普通の本は専門家や学者によって書かれる「人による権威」だ。TVで一番権威があると言われているNHKですら、3年前のデータは古くて使えないと言われ、常に新説を更新しているのが現状だ。しかし聖書は何千年もの間変わらない神の言葉だ。

聖書自身が次のように言っている。「天地が滅び行くまでは、聖書の一点一画もすたれることなく、ことごとく全うされるのだ」「聖書はすべて神の霊感によって書かれた」と。聖書は自分自身で、神によって書かれたと断言している。これが本当なら、これ以上の権威は無い。

本当に天地の創造主、全てをお創りになった神の言葉なのなら、この聖書に人生を賭けてみて確認すべきではないか。

聖書には、「こういう場合にはこうせよ。そうすればこうなる」とあるのだから、徹底してこの聖書の言葉に自分自身を賭けることで、自分の身をもって聖書が確かか否かの検証が出来るのだ。

 

「人としての成長」が意味するもの

一般に「成長」という語は、背が伸びる、スキルが身につく、仕事のパフォーマンスやクオリティが向上するなど、「大きくなる、上達する、習熟する」といった意味で使われることが多い。

エントランスから社内に入る通路の壁紙には行動指針が印刷されている

しかし、同社のいう成長はそういう意味ではない。

同社が企業理念とする人としての成長とは、そういった外側の問題ではなく内面の問題。

自分の心の通りに動けば、自然と相手を大切にし、相手を思いやった行動となって現れる。

つまり、マニュアルによったり、努力したり意識する必要なく、無理なく素の自分のままの行動で「愛のある人」になることを指す。

さて、普通私達は自分の努力で成長し、良い人になれると思い、これを目指す。

しかし聖書は、「自分を規制して難行苦行をしたとしても、欲しいままな肉欲を防ぐのに、なんの役にも立たない」と言っている。

仮に難行苦行をして良い人になれたとする。そしてその人達が天国に行けたとしたら、「自分はこんなに良い事をしたから来られた」と、天国は自慢する人の集まり、高慢な人達ばかりの、最悪な世界になってしまう。

 

聖書にはこんな例えがある。

「ふたりの人が祈るために宮に上った。宗教家はこう祈った、『神よ、私は欲深い者、嘘つき、浮気者でないことを感謝します。私は週に二度断食しており、全収入の十分の一を捧げています』。ところが、徴税人は目を天に向けようともせず、胸を打ちながら言った、『神様、罪人の私をお赦し下さい』と。神に義とされたのは、この徴税人であって、宗教家ではなかった」と。

このように、自分が出来ていると思う人は成長に程遠いのだ。

2017年2月号の本誌で、宇佐神氏を取材した時の題名は〝「ダメ人間」が原点 〟であったが、自分が出来ていると思った人は成長するどころか、高慢になるだけだ。

出来ていないと分かったところが成長の原点なのだ。

さて、「成長とは外側の成長ではなく、内面の成長だ」と言う話をしたが、私達を自動車に例えると、「身体」は車体のようなものだ。そして「頭脳」は電気系統。「欲」はエンジンだ。ここまでが自動車。

しかし運転手がいないと自動車は動かない。この運転手を、聖書は「霊」とよぶ。私達の外側である「身体」は、生まれてきて、歳とって、病気になって死ぬだけ、つまり、「身体」が成長したところで、いずれは死ぬのだ。自動車がポンコツになって死んだら、運転手である「霊」は降りればいい。

聖書には「神は人を土から造り、命の「霊」を人の中に入れた」とあり、また「人は死んだら土に帰る、「霊」はそれを授けた神のもとに帰る」とある。「身体」は単なる器で、「霊」が私たち自身だ。しかし「霊」と言っても、私達にはその実態が分かりにくい。

そこでここでは「霊」を、霊の働きの一部分である「良心」として説明する。

 

私達の人生とは、〝「身体」という器に乗って「良心」が成長するための道〟である。しかし運転手である「良心」は弱く、「欲」にいつも打ちのめされる。つまり私達の自動車は、運転手が弱すぎて、運転手が気絶したまま「車体」が暴走しているようなものである。「欲」は先々突っ走るエンジンで、時々事故を起こす。身体に「成長した良心」が乗らなければ、安全運転ができないのだ。

 

例えば、電車で席を譲る場合。

「欲」は「自分も疲れているから寝たふりしちゃえ」と「良心」に戦いを挑む。「良心」も負けじと応戦するが、敵は手ごわい。仮に席を譲ったとしても「良心」が勝ったとは限らない。「白い目で見られたくないから」とか「良い人だと思われたいから」など、「欲」が動機となって行動している可能性もある。

更に「欲」は悪質だ。自分を良い人だと偽らせることも出来る。私達は「自尊心のため」にも席を譲るのだ。あたかも目の前の人を心配して席を譲ったかのように。これは「自分は良い人だ」と満足したい「欲」がなせる業だ。

こうして我々は偽善的行為を、あたかも良い人のように行うことさえある。

 

この時主導権を握っているのは「良心」ではなく「欲」だ。偽善者になるくらいなら、分かりやすく「欲」の言いなりになって「寝たふりをする」方が正直かもしれない。

 

また、「欲」の声は、いとまなく語り掛ける。

「もう少し寝ていよう」「ゲームをもう一つやってから」「人が見てないからいいや」等と常に「良心」に戦いを挑んでくる。

「良心」、つまり運転手が未熟だと人生は危険極まりない。「欲」が主導権を握って暴走し、私達の人生はいつも事故を起こし、後悔だらけ。そして自他共に不幸になる。だから私達の本体である「良心」が成長し、力を持って運転しなければならない。つまり成長とは、外側の「身体」という、いつかは滅びる器の成長ではなく、内面の「良心」という運転手の成長なのだ。

 

もう一つ、「欲」に支配された私達が如何に悲惨であるか、例を挙げたい。

お金を欲している人は、いつもお金のことを考え、自分が思うようにお金が得られないとストレスが溜まり、不幸になる。一方、お金が思い通りに得られたなら、もっと不幸だ。人間の欲は際限がないから、もっと蓄えなければ満足できなくなる。お金に縛られる人生は悲惨で、取り巻きはお金目当て、人との関係は冷え、あらゆることがコントロール不能に陥り、自由は奪われる。そして事故を何度も起こしながら、人生の終わりを迎える。

聖書にはこんなことが書いてある。「あらゆる貪欲に警戒しなさい。例えたくさんの物を持っていても、人の命は持ち物によらないのである」と。

 

人は、この「欲」から解放されたいと思い、出家したり難行苦行をし、悟りを開こうとしてきた。

しかし難行苦行で「欲」というエンジンをストップ出来たとしても、それは「欲」を放棄するだけの「あきらめの道」「止まってしまう道」でしかない。

聖書は、「苦行は知恵ある仕業らしく見えるが、欲しいままな肉欲を防ぐのになんの役にも立たない」と言っている。

自動車を鍛えても、安全な運転は運転手によるのであるから、運転手である「良心」の成長に目を向けなければ死んだ人生になるだけなのだ。

 

では「良心」を成長させるにはどうしたらよいか?

聖書は「神を信じろ」と言う。な〜んだ、宗教か? と思う人もいるだろう。

何を隠そう、宇佐神氏は宗教を信じない牧師だ。「鰯の頭も信心から」などと、信じることに意味があるという感覚的な思い込みは受け入れない。

 

しかし聖書は前述したように、宗教書では無い。聖書で言う「信仰」とは、もともと「信頼関係」を意味する。神様を信頼できるかどうかだ。お金は見えるから信じやすい。しかし神は見えない隠れてる。その神が、いくら聖書で「大丈夫だ!」と言ってもなかなか信じ切れないのだ。

しかし聖書には「こういう場合にはこうせよ。そうすればこうなる」と書いてある。

つまり、神様は虎の巻(あんちょこ)を下さって「やってみなさい」と言っている。それだったらやってみて、正しいかどうか確認しよう。科学的検証と同様に、何度も何度も検証出来るのだ。

 

宇佐神氏は言う。

「神様の言葉を信じて、その通りに賭けていくなら、聖書が本物か偽物かが分かります。これを何度も何度も繰り返すたび、神様が如何に誠実な方で、ちっぽけで75億分の1でしかない私に目を留めて下さっているかが確認できます。神様に愛されていることが分かると、益々神様を愛せるようになって、神様の言葉を守りたくなるんです。『聖書』も神の言葉ですが、『良心』も神の声です。

つまり、信じて賭けて、結果を確認することで、益々『聖書』と『良心』の声に則って歩めるようになるんです。本当の父である神様は、愛と忍耐を持って私達を成長させて下さっています。

神様に愛されていることが分かれば、私達にも愛が芽生え、神と人とを愛することが出来るようになります。そして『良心』は成長し、愛の動機で『身体』を運転出来るようになるのです」

 

宇佐神氏はこのように原則を語った後、現実にはそんなに簡単ではなかったことも話した。

同氏は神の言葉を信じて、危ない橋を渡って、数多くの確認を得、神に裏切られることはなかったとの事だが、その一つひとつは真剣そのもの命がけだったという。

ここに一例をあげると、聖書には「与えよ、そうすれば、自分にも与えられる。人々は押入れ、揺すり入れ、溢れるまでに量をよくしてふところに入れてくれるであろう」と書いてある。

宇佐神氏は、以前働いていた会社で仕入先を開拓した責任上、それらの会社への負債を肩代わりして多額の借金を負ったのだが、その仕入れ先の多くが貸し倒れにしてくれたりもし、本当に困ることはなかったという。

しかし責任を取って「与えた」結果、その何倍も「与えられる」に至るまでの期間は十年以上の歳月を要したという。

これは、私達の見本である聖書の中人物も同様で、彼らも長い歳月を掛けて約束のものを得ていったことが覗える。

開放的なミーティングスペース。ミニキッチンも備え、昼食時やアフター5には憩いの場ともなる

普通私達は結果を考え、損得勘定をして決断する。まして会社を経営していれば、社員全員が路頭に迷うかもしれない決断など、いくら正直でまともなことをしようとする心があっても中々出来るものではない。

聖書の中で神は次のように語っているという。

「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さる」

 

神は宇佐神氏も、一歩一歩、常に耐えられるギリギリの試練を与えられてきた。また、この試練を通ることで、より神を信じ、より良心に従った決断が出来るようにと、親が子供を導くように、神は導いて下さった。

そして、聖書を通して神は宇佐神氏に次のように言う。

「あなた方が、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。

あなた方の知っているとおり、信仰がテストされることによって、忍耐が生み出される。だから、なんら欠点のない、完全な、出来上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい」

 

宇佐神氏は、いろいろな試練を今まで通って来たが、「神を信じ切れなくても」「失敗しても」その度に忍耐と愛を持って宇佐神氏を完全にしようとして下さってきた神に感謝し、日々歩んでいる。

企業理念である「人としての成長」は、「神の子として成長して帰ってこい!」との神の期待を背負って一人ひとり神から与えられたフィールド(時代や地域や親や社会)で神と向き合って相撲を取るときに、初めて神が分かり、神に出会い、成長し、完全な人になる!との意を込めている。

 

「成長」を自分の努力で求めれば、堅苦しくて近寄りがたく、頑張り続ける人にしかなれないだろう。

しかし神に愛されて成長して完全な人になったならば、そこには安心と喜びがあり、素の自分で立てる人になるだろう。神はそんな人を造るべく、神の愛の中に包んで育てて下さるのだ。

 

「神様は私達を本当に愛して下さっています。それは僕の実感でもあるんですが、神は誰にでも、『良心』を通して語って下さり、大自然や聖書を通して語り掛けて下さっています。ただ、神様だけの片思いでは愛は成り立たないので、求めてくる人に応えようとしておられます。神様は決して強制しません。私達の自由意志を尊重して下さいます。愛は強制でなく、自発的な心から出るものだからです。

神は聖書でこう言われています。『わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしを切に求める者は、わたしに出会う』」と宇佐神氏は熱く語る。

 

更に「成長」の最終目標である「愛」について続けた。

「人としての成長の終局は、友のために命を捨てる『愛』です。僕の目標もここです。自分の努力でこれを勝ち取ったなら、〝高慢で堅苦しい偽善者〟になるでしょう。でも、神を信じて神に身を委ねた結果〝愛の人〟になれたなら、『謙虚で柔軟で温かく、素の自分で嫌味なく立つ愛の人』も可能なのです。事実、今まで神様は、僕をそうしようと色々なところを通し、根気よく教えてきて下さいました。

試練を乗り越えられないで失敗する僕に、何度も何度もチャンスを下さり、めげそうになれば励まし、高慢になると忠告して下さいました。それでも僕の成長は遅々としたもので『神様は悲しんでおられるだろうな!』と自分の実態を見て思います。もし僕が神様だったら『こんな奴もういい!』と、とっくに言っていることでしょう。神様の忍耐と愛に触れるとき、愛が分かって、神様の期待に応えたい、成長したいと思うのです。

神と共に歩んだ聖書の中の人物もこのように言っています。『わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである』と」

 

自らの成長を求める人材が多く集まり、社内には自由な雰囲気と活気があふれている

翔栄クリエイトの企業理念の中で一番重要な「人としての成長…を限りなく追及する」方法は、頑張って、努力して、難行苦行して勝ち取る成長の道ではない。また、愛の偽善者になる道でもない。努力もせずに「神が救って下さる」と棚ぼたを待つ道でもない。

聖書には「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さる」「わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える」とある。

宇佐神氏のいう「成長」とは、この天地を創り、私達に必要な全てを与えて下さっている神の言葉を信じ、神と関り、神の愛を知り、神の計画に身を委ね、〝流れ〟に乗って、愛の人に成長することを言うのだ。

 

さて、宇佐神氏は社員に企業理念を示し、その意図するところは伝えるものの、社員には強制しない。

宇佐神氏はこう言う。

「神様も私達に強制しません。神様は隠れつつ『わたしはいるんだよ』『あなたを愛しているよ』と『大自然』や『良心』や『聖書』で示し、また神に賭ける人に証拠を示して下さいます。もし人が神を知ろうと求めるなら、必ずご自身を示し、その人は神の愛を知って成長するでしょう」と。

翔栄クリエイトの企業理念は、こんな宇佐神氏の思いからつくられたものだ。

 

正直であることは一時の利益より遥かに重い

1番目の理念と2番目の理念は、この「成長」を突き詰めたところから自然に導きだされてきている。

だから、1番目の理念である「正直で、常に社会に必要とされる企業である」に「正直で」とあるのも、すべての根幹である「人としての成長」と当然無関係ではない。

正直でない行為、すなわちごまかしや嘘は外側を取り繕うものに過ぎず、成長から最も遠い行為だからだ。正直であるということは、昨今の国会やスポーツ界の出来事を例に引くまでもなく、簡単なようで難しい。

自分1人のミスならまだしも、例えば電気工事の現場で、協力業者が儲けのために手抜き工事をしていたら? 工程がかなり進んだ現場で設計に不備が見つかったら?

それを正すことで自社が大きな損失を被る場合にも、それらを正直に報告し、やり直すことができるか?この「正直で」が問うているのはそういうことだ。

同社では、例え会社の立場を考えての行動であったとしても、社員が嘘やごまかしをすることは決して許されない。その正直さゆえに、実際に工事のやり直しが発生したことも数度あり、それが経営を圧迫することさえあったが、それでも正直であることを貫く姿勢が、顧客・協力業者の双方から揺ぎ無い信頼となっている。

 

人を活かすニーズのある事業を手がける

また、2番目の理念である「真の意味で、時代のニーズに応えうる事業を行う」は、翔栄クリエイトという企業が、この社会に何をもたらしていくのかを宣言したものだ。注目すべきは、単なる時代のニーズではなく「真の意味で」となっていること。それもまた「正直にまっとうな道を歩む」こととリンクしている。

「真の意味」というのは〝人を活かす〟ということ。

時代の流行廃りに合わせて儲かる事業を手がけるのではない。真に社会のためになり、人を活かすニーズのある事業。

「多くの人はその道を選ばず儲かる方へ行きますが、利益を第一の目的としてしまえば、顧客は自分に利益をもたらす道具になってしまいます。それでは、お客様に最高のパフォーマンスを提供することなどできませんよね」

 

素材にこだわった野菜と果物をたっぷり使った「コールドプレスジュース」。人の健康に役立つものをできるだけ安い価格で提供したいとの思いがある

同社が利益を第一としていないのは、例えば2016年10月に始めたフレッシュコールドプレスジュースの製造販売事業や無農薬の露地栽培などを主とする農業事業を見れば一目瞭然だろう。

同社がこれら「食」に関する事業を始めたのは、昨今の異常気象による野菜等の不作のリスクに加え、遺伝子組換え原料を使用した食品の増加や野菜・くだものの栄養量の低下、残留農薬のリスクなど、食の安全がどんどん脅かされていく昨今、安心・安全な食の提供に確かな〝真の意味での時代のニーズ〟を感じたからだ。

だが、コンビニへ行けば濃縮還元100%のジュースパックが100円前後で売られている中、安心・安全な素材と栄養素を壊さない製法で作られていることを考えれば格安とは言え、1瓶480円のコールドプレスジュースを買おうという人はまだまだ少ない。

ジュース販売1号店である東中野の店舗は毎月赤字が続いている。それでも、他社のように代官山や青山、表参道、恵比寿、六本木などに出店し、700〜1000円で販売しないのは、儲け第一ではなく、人の健康に役立つものを手軽に買える値段で提供したいとの思いからだ。そして、販売価格を下げるために、自社で野菜の生産を始めるなどの創意工夫も続けている。

 

一般的な濃縮還元100%ジュースは、人件費節約のために海外で農薬を多用して手間を省いて作った野菜やくだものを原料とすることが多い。

それらをそのまま産地で絞り、加熱処理して6分の1ほどに濃縮し、更に防腐剤・防カビ剤を入れて運んでくる。体積を減らすのは輸送費削減の為である。日本に到着すると、水を加えて還元するが、熱処理により既に栄養素は壊れ、しかも長期保存のための防カビ剤や防腐剤入り。更に、飛んでしまった味と香りを再現するための香料をはじめ、体に有害なものを入れて製品化する。

 

だから100円以下で売れるわけで、市販されている果物の値段から考えても、100%ジュースというのは本来おかしいのである。しかし今の日本ではそれが当たり前になっているのが現状。

 

宇佐神氏は言う。

「当社はまともなことをまともに行うだけです。あとは個々人の選択です。当社のメイン事業であるオフィスデザインも、当初は、企業理念や技術を世間に伝えるのにオフィスデザインが重要であることを理解してもらえず、〝利益が上がったらいいオフィスを作るもの〟という認識が一般的でした。

そんな中から顕在化されていないニーズを掘り起こし、顧客を創造してきたのであり、それこそが当社の仕事です。まともなことを行い、それをお客さんにきちんと勧める。その結果がどうであれ、当社は時代の真のニーズ、人が気づかなくても必要なことを淡々と行っていくだけです」

 

宇佐神氏は、もちろん事業が赤字でもOKと言っているわけではない。

しっかり利益をとらなければ、顧客に対して企業としての責任を果たせないことは先刻承知の上で、他事業とのバランスを取りながら、企業理念と信念に基づき、新しい種をまき続けているのだ。

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宇佐神 慎(うさみ・まこと)氏

1959年8月2日、宮城県仙台市生まれ。

茨城大学工学部工業化学科を3年次に中退し、茨城キリスト教大学3年へ編入。

卒業後、更に心の成長を求めて東京基督教短期大学(現:東京基督教大学)2年へ編入。

その後、社会で学びを積むべく1987年に某通信機会社へ入社。1997年8月に株式会社翔栄システムを設立し、同社の代表と、元の会社の営業部長を兼職。

2000年5月以降は同社代表取締役一本となる。

2005年1月の称号変更に伴い、株式会社翔栄クリエイト代表取締役に就任。現職。

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