礎電線株式会社代表取締役社長田中友則氏

1931年の創業以来、一貫してエナメル線製造を手がけてきた礎電線株式会社。しかし21世紀に入り、経営方針を大きく転換させなければならない事態に襲われる。技術を頼みに歩んできたものづくり企業が、時代が移り変わる時にどういう舵取りをしていかなければならないのか。多くの日本企業が直面しているこの問題に立ち向かう姿がそこにはあった。

ブラウン管テレビが無くなる……製品の売り先が急減

現在は埼玉県吉川市に本拠を構えている礎電線株式会社は、元々は東京の下町、葛飾で創業した。1931年のことだ。

1931年といえば満州事変が起こった年。明治維新から70年を経て、日本がやっと工業国として世界に認められ始めた、という時代だ。そんな時期から、電気機器になくてはならないエナメル線に目をつけ、その製造ひと筋で歩んできた。

「間もなく創業90年を迎えます。創業時からラジオの電線等の生産をしていましたが、その後は国から仕事を受注していたこともあり経営を拡大。戦後はテレビの普及に伴ってエナメル線の需要が増えていたので、今まで続けてこられました」

祖父が始めたこの会社を受け継ぐ、4代目の現代表取締役社長田中友則氏はそう語る。

礎電線株式会社は長年培われてきた高い技術力を持ち、大手電器メーカーから大量に発注を受けて順調に経営を続けてきた。しかし、昭和が終わり90年代に入るとその行先には徐々に暗雲が立ち込めるようになってくる。

 

「一時は世界のテレビ用電線の34%は弊社が生産したものでした。生産量も年間3000トンを超え、行く先は順風満帆に思えていた。しかしその頃から安価で高性能な液晶テレビが普及しだした」

以前はブラウン管が使用されていたテレビだったが、大型でも場所を取らず画像も美しい液晶テレビやプラズマテレビなどの薄型テレビが開発されると、マーケットの主軸商品はそちらに移っていった。

決定打となったのが2003年からのデジタル放送開始だ。これ以降薄型テレビが一気に普及するのだが、日本の各電器メーカーは薄型テレビ市場への対応が遅れ、海外メーカーにシェアを取られてしまう。

 

そして現在、世界のテレビ市場はサムスンやLGなどの韓国企業、またハイセンスやTCLなどの新鋭の中国企業がシェアを誇り、日本のビクター、パイオニア、三洋は既にテレビの生産を終了、日立は生産を海外メーカーへと委託するようになってしまった。

この国内電器メーカーの衰退が、部品メーカーである礎電線株式会社にも直撃する。

「2002、2003年頃からテレビ用の電線の生産は全く無くなりました。その結果3000トンもあった生産量は400トンに、売上も25億円だったものが4億円にまで減少した。いよいよ会社を畳もうか、と状態にまで陥ったのです」

当時の苦境について、田中社長はそう話す。

 

会社存亡の時期に入社

田中社長が祖父が創業し、当時は父が社長を務めていた礎電線株式会社に入社したのは、そんな時期だった。

「大学で私は法学部で学んでいました。その頃には全く社長を継ごうという気持ちはなかった。当時、私には兄がおり、彼が会社を継ぐ予定だったのです」

「しかし彼が早世してしまい、私がやらなければならなくなった」と田中社長は当時を思い出す。

大学卒業後、他業種の企業に就職していた田中社長だったが、実家のそういう状況もあり、27歳の時に礎電線株式会社に入社、父である3代目社長と手を取り合って困難に立ち向かっていくことになった。

「しかしそもそも継ぐつもりがなく、大学も技術系ではありませんでしたから、まずはエナメル線とは何か、を一から勉強するところから始めました」

一言にエナメル線と言ってもその種類にはいくつかあり、皮膜にもポリウレタン、ポリイミド、ポリエステルなど色々な材質がある。それらを絶縁の皮膜として銅線に塗布しているのだが、その用途によって材質や皮膜の厚さをミクロン単位で調節する必要がある。メーカーが求めるそういった細かい要望に応えるためには、高い技術力が必要になる。

「当時は営業が私1人しかいなかったので、1人で提案・成約、更に工程も組んで製品を納品するまでしていましたよ」と田中社長は笑う。

こうしてたった1人で営業に駆け回る中、田中社長は会社に内在していたある問題に気がついた。

 

「テレビ用の線を生産していた時には、取引メーカーが変わるに従ってメキシコや台湾、韓国、マレーシア、そして中国と点々と営業していました。なぜなら、大口の顧客が離れるとその穴埋めのためにまた大口の取引先を探さなければならなかったからです。以前日本で電器メーカーと取引をしていた時には1つの大手メーカーへ生産量のほとんど、7、8割ほども納めていた。ですからそことの取引が無くなってしまうとダメージが大きかった。大手に依存する体質だったのです。また大手との取引では価格決定権を向こうが持っていることが多いという問題もある。これらの点を改めなければならないと考えた」

 

小ロットでニーズに応えるきめ細やかさ

月平均19社と取引しているのだが売上の8割はその中の上位2、3社に占められている。この不安定な寡占状態を改めなければ会社に未来はない。

田中社長と父である3代目社長はそう考え、2005年頃から売上を分散させるように動き出す。

「となれば、まず新規顧客を開拓していかなければなりません。そこで目をつけたのはネットでの販売です。SEOを駆使して検索で上位にヒットするようにする。『エナメル線』と検索したらすぐに『礎電線株式会社』と挙がってくるようにすれば、営業をかけずとも向こうから問い合わせが来ると考えました。事実、今の取引先の多くはネットでの問い合わせから始まった顧客ですし、またこの方法は闇雲に営業するよりも成約率が高い」

そして顧客のニーズに合った製品を提供することだ。

国内のエナメル線メーカーは電器メーカーの不況を受けて次々と合併・廃業し、現在は大手を含めて数社しか残っていない。そのうち生産量90%以上を大手が占めており、残りを中小企業4、5社で作っているという状態だ。

 

「その中でも弊社は最も小さく、シェアとしては1%ほどしかありません。その中でどのように立ち回っていくかを考えた時に、その小ささを逆手に取った。他のメーカーが手を引いたようなニッチな製品、難しい製品を手がけるようにしたのです」

例えば、通常0.2ミリ、0.21ミリという太さで要望がある導体だが、時には0.203ミリ、0.205ミリという顧客からのリクエストもある。大量生産のメーカーだとこの太さを10キロ分だけ作ってもらいたい、などとという要望は拒否してしまうことがほとんどだ。しかし田中社長はここに活路を見い出す。

「こういう要望を弊社が受け入れる。その代わりに付加価値を付けた取引ができる。価格決定権をこちらも持つことができるようになります。ですから労働生産性を高く維持できる」

大手メーカーと同じような汎用品を作らない、それが策だった。

「その結果、今は取引先が80社に拡大していますが、上位10社を合計しても売上の5割にもなっていません。分散させることで売上を保つようにしているのです。今は大手だけでなく中小・零細などあらゆる企業が私たちのクライアントです」

 

「会社の立ち位置を間違えない」

日本の製造業が不況の中で様々な道を模索し、多くの企業は人権費の安い海外での生産に道を求めた。しかし2010年代後半になると東アジア各国の経済成長が著しく、日本国内より人件費が高騰している国も少なくない。

「ですから海外で生産することは考えていません。海外で工場を、となるとやはりそれなりの生産量を作らなければ利益になりませんし、そうなると付加価値を維持できるのか難しいところです。日本は製造業にとってよい環境だと思います。日本で価値あるものを作り、それを海外のメーカーが買う、という仕組みが上手く作れたらいいと思います」

一時は存続も危ぶまれた礎電線株式会社だったが、現在は全盛期の5割を超えるほどにまで売上を回復させることができた。

 

「とはいえ、道はまだ半ばです。エナメル線は電気を使う凡ゆる製品で使用されている、なくてはならないものです。まだまだ未来がある事業だと思っています。ですから会社を続けていくために、これからの舵取りが何より重要なのです」

「会社の立ち位置を間違えないように。それが私の仕事だと思っています」と話す田中社長のこれからの采配に注目だ。

 

田中友則

1971年東京都生まれ。日本大学法学部卒業後、一般企業に就職。その後97年に礎電線株式会社に入社。2014年より同社代表取締役社長。

礎電線株式会社

〒342-0013 埼玉県吉川市吉屋718

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